女が栗木を植えるとき
農村でもっともうつくしい風景は、木を植える農婦のいる風景である。しかもその木は栗の木でなければならぬ。
このことはあまり説得力を持たないかもしれない。ミレーの一連の秀作は、ため息の出るようなひろがりのある田畑に小さな小さな麦の穂を探し、みずからの手で拾い上げる女たちの誠実な仕事が、黒くてうすい布で覆われたような、静謐な色彩にまとめあげられ、異国の、そして異なる時代の農村の見たこともない暮らしぶりを伝えてくれるのだし、「ボヴァリー夫人」が乗り合い馬車で見つめる野原の描写も同様だ。
そもそも農村において、木を植えるということはあまり無いことなのかもしれない。たとえば畑に木を植える、ということはその土地での耕作を放棄するということ、つまり毎年繰り返されるはずの、あの女たちの誠実な仕事を放棄するということを意味しているからだ。しかしながら、農村にはわずかながらに木を植える女たちもいるのだ、栗木を植える女たちが。
木を植えるということが内包している時間の幅を考えることはとても難しい。わたしたちの乏しい想像力は、定点カメラの映像がとらえるような持続的な映像を想像することを拒否することで、植えられた木が少しずつ幹を太くし、枝を伸ばし、葉を蓄えてかたちを変えるようす、そのメタモルフォーゼの過程をざっくりとつかもうとする。木のはらんでいる生命の時の幅を追いかけようとすることはほとんど成功しないものなのだ。
ところが農村の女たちはそのような時間の幅を、栗の実について考えることで、簡単に乗り越えることができてしまう。女たちの誠実な仕事は、でっぷりとした、内部の豊かな実りを約束するような鈍くかがやく褐色の殻を剥く段になって発揮される。赤い錆のついたナイフを突き立てて、水に一晩浸かっていたために、しっとりと濡れた褐色の実を削りとるようにして、いびつな多面体のようなクリーム色の実をえぐりだす。女たちの誠実な仕事は、寒々しいひろがりを持つ田畑での麦穂拾いの仕事から、炉端での殻むきの仕事に移しかえられるのだ。女たちの誠実な手仕事は、植えられたばかりの栗木を、殻のむかれたクリーム色の実に結びつけるような、そのような想像力を用意する。栗木を植えるときの女の、なげやりに土を掘り起こし、苗木にそれを被せるやり方はしかしながら、容易に時を飛び越え、むき終わった実がぎっしりつまったバケツをのぞきこむときの充実したようすを思い起こさせる。
女たちも時には栗木を枯らしてしまうこともある。日に焼けてしまったのか、あるいは水の不足から根がうまくつかなかったのか。枯れてしまって、頼りなくって、根もとから風に揺れている黒い苗、ジャコメッティの彫り上げる人間の脚のような黒い線をつかんで引き抜こうとすると、女たちは、あかんかったなあ、と言って悲しげにわたしを見つめる。わたしは見つめられたくなかった。どうしてわたしは枯れてしまった栗木を引き抜こうとしたのか。女たちは下草を刈り取って、栗木の根もとをそれでもって飾りつける。
女が栗木を植えるとき、わたしはいないほうがいい。女たちが草を刈るときにはそっと手を貸して。栗の実のなるころには、姉さんかむりで馳せ参じて、あの誠実な仕事をよく見ておこうと思う。ごろっとバケツとすり合う音が、ここちよい、たっぷりの栗の実を運ぶ仕事は請け負って、水をはったバケツに、たっぷりの実を浸して。赤い錆のついたナイフを突き刺す瞬間を、褐色の殻がほぐれる瞬間を、よく見ておこうと思う。そして、クリーム色の実が現れて、わたしたちはあの時間、わたしのいなかったあの時間に、立ち会うことができ、わたしは泣いてしまう。栗木のメタモルフォーゼを、女たちの手に見ることができ、わたしはやっぱり泣いてしまう。女が栗木を植えるとき、わたしはやっぱり泣いてしまう。
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