直観 ブラフマンとアートマン
ピタゴラスやプラトンなど数々のソフィストたちに育くまれた直観的で豊穣な思想が、二元的論理や一神教的思想に収斂されていったヨーロッパ半島に対し、インド亜大陸では古代から現代まで終始一貫して、直観的把握を重要視する思想が展開してきました。
神話から自然学や神学、哲学、論理学などが枝分かれして発展したヨーロッパとは逆に、大きく融合した神話的世界がそのまま多様な論理によって展開してきたのがインド的な「踊るマハラジャ」世界です。
インドでは人間と切り離された神は存在せず、人間と世界もまた切り離されたものではありません。
世界が神であり、人間は本質的にその一部だという考え方がインド思想の歴史を貫いており、その真実を捉えるための認識方法は直観しかあり得ないと考えられています。
B.C.1200年頃に成立した神々の讃歌『リグ・ヴェーダ』は、武勇神インドラ(帝釈天)や司法神ヴァルナ(水天)など多数の神々を讃えるバラモン聖典です。
有も無も超越した中性的原理「タッド・エーカムtad ekam(かの唯一なるもの)」による宇宙創造の賛歌や、祈禱主神ブラフマナスパティ(ブリハスパティ)による創造神話が謳われており、この創造神の概念は後のウパニシャッド時代の一元的原理である「ブラフマンBrahman」と「アートマンĀtman」へとつながっていきます。
ウパニシャッド(奥義書)においてブラフマンは「宇宙の最高原理」であり、人間を含め全存在の根拠であって、万物の中に宿っています。
そしてアートマンもまた同じように「大宇宙の原理」であり、「全ての生気、全ての世界、全ての神々はアートマンから生じる」とされています。
ヨーガ哲学の元祖となったウパニシャッドの聖仙ヤージュニャヴァルキヤは、『ブリハッド・アーラニヤカ・ウパニシャッド』でブラフマンとアートマンを「最初にあった」ものとして同列に挙げていますが、その中でまたアートマンは「〇〇に非ず」としか言えないものであるとも言っています。
変幻自在に錯綜するヤージュニャヴァルキヤの教えを簡単にまとめてしまえば、
ブラフマン=認識されるもの(客体)
アートマン=認識するもの(主体)
となり、アートマンはあくまでも認識する主体であって認識される客体ではないため、「〇〇に非ず」としか言えないということです。
一般にブラフマンは大宇宙(マクロコスモス)の原理として「梵 ぼん」と訳され、アートマンは小宇宙(ミクロコスモス)である人間存在の本質として「我 が」と訳されます。
そしてこの二つが本質的に同一であると瞑想の中でありありと直観することで、業(カルマ)や輪廻(サンサーラ)からの解脱を得ることがインドの根本思想として捉えられ、それを「梵我一如 ぼんがいちにょ」の思想と呼んでいます。
ところがそもそもこの二つは、宇宙の初めから存在している根本原理であり、その誕生においては分けることのできない一つのものでした。
そしてブラフマンは客体でアートマンは主体であるため、梵我一如とはつまり「主客一体」という意味になります。
「観るものと観られるものは本来同じである」という一元的認識論の直観こそ、インド哲学が目指す地平だったのです。
インドにおいて、「哲学」は「ダルシャナdarsana」と呼ばれています。
これはサンスクリッド語の動詞の語根drs(観る)から派生した言葉で、「観る」ことは物体に対して直接的に体験をすること、それと一体になる感覚で理解することです。
インド哲学では究極のものを掴みうる唯一の方法として直観的認識が採用され、知的な知識(理論)では真実を知るためには不十分であって、人間はそれを実際に体験しなければならないと捉えています。
理性は真理を説明することはできますが、真理を発見したりそこに到達したりすることはできず、最終的には直観に依存せざるを得ません。
人間にとって大切なのはただ単に真理を知ることではなく、それを生身において実現実感することだからです。
ブラフマンの力はヴェーダに記された聖なる詩句(マントラ)が、祭官による祭式において正しく発せられることで発動するとされています。
ブラフマンに携わる祭式や祭官はブラーフマナと呼ばれ、漢語では婆羅門(バラモン)と訳されますが、彼らはマントラを唱えることでヴェーダの神々を呼び出し、その聖句の持つ呪力によって神々を使役したため、人間を超えた神聖な存在としてブラフマンと同一視されるようになり、古代バラモン教が成立しました。
ヴェーダ聖典の学習やヴェーダ祭式の挙行は、初期にはバラモン階級のみに許されていた行為でしたが、北インド各地に王権国家が成立するとともに王族階級(クシャトリヤ/ラージャニヤ)にも認められるようになり、商業が発達すると庶民階級(ヴァイシャ)も参加できるようになりました。
このヴェーダの大衆化とともに、ブラーフマナ祭式の持つ神聖な力は次第に形骸化していくことになり、祭祀にとらわれない自由思想家群が現れます。
その内の沙門と呼ばれる思想家たち中からマハーヴィーラやブッダが登場し、バラモン教へのアンチテーゼとして、ジャイナ教や仏教を生み出すことになりました。
次回はこの二人の沙門について書きたいと思います。
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