ヂ。-人類の運動について-
タウマスThaumasは母なる大地の神ガイアと、ガイアが一人で産み落とした海の神ポントスが交わってできた子で、「不思議」「驚異」を表す神です。
プラトンはこのタウマスと同じ語幹を持つ「タウマゼインthaumazeinこそが哲学者のパトス(情念・気持ち)であり、これ以外に哲学のアルケー(根源)はあり得ない」と述べています。
アリストテレスも「今も昔も人々は、驚異の念に導かれて哲学することを始めたのだ」と語りました。
わたしたちが日常の中で当たり前に感じていることや、普通だと思っていることに対して「あれ?何か変だ?」と気づくことが、哲学のスタートなのだということです。
魚豊の漫画『チ。-地球の運動について-』は、15世紀ヨーロッパを舞台として、地動説に魅了された様々な人間たちを描いています。
第1章の主人公ラファウは、12歳で大学に入学した神童でしたが、地動説に出会ってその論理の美しさに驚き、極秘に研究していたところを異端審問官に捕まってしまい、自ら毒を呑んで自殺します。
ところがラファウは物語の最終章の中で、この章の主人公アルベルト・ブルゼフスキの家庭教師として再度登場します。
少年アルベルトは、北の空に一日中動かない星を発見したことを父親に告げ、「夜空を見る度に驚くんです。」と言い「学ぶのが好きです。全部を知りたい。」と訴えました。
そして父親がアルベルトに、学ぶことを学ばせるために紹介したのがラファウ先生でした。
ラファウ先生はアルベルトと一緒に星空を見上げ、「夜空を見ると、感じるだろ。タウマゼインを。」と言い、それは「この世の美しさに痺れる肉体のこと。そして、それに近付きたいと願う精神のこと。つまり“?”と感じること。」だと説明します。
アルベルト・ブルゼフスキは15世紀のポーランドに実在した人物です。
ポーランド最古の大学であるクラクフ大学で20年間教鞭を取るなかで、天体の位置関係を計算するための表を作成し、天文学の近代的な教授法を確立しました。
月が常に同じ面を地球に向けていることや、楕円軌道を描いていることを、ヨーロッパ世界で初めて突き止めたのもブルゼフスキです。
そしてその教え子の一人には、ニコラウス・コペルニクスがいました。
ブルゼフスキの美しい宇宙観に啓発され開眼したコペルニクスは、カトリックの律修司祭として、また医師として働きながら天体観察を行い、1510年に『コメンタリオルス Comentariolus』を出版します。
この小論考で彼は、当時主流だった地球中心説(天動説)を覆す太陽中心説(地動説)を唱えましたが、数人の友人たちに送っただけで、一般に流通させることはありませんでした。
コペルニクスは聖職者としての立場から、30年もの間地動説の公開を控えていましたが、1540年彼の弟子として一緒に暮らしていた、ウィッテンベルク大学の若き数学・天文学教授ゲオルク・レティクスが、その概要を『ナラティオ・プリマ Narratio』として公刊したことで、ついに出版に踏み切りました。
『天球の回転について De revolutionibus orbium coelestium』と題された校正刷りを受け取ったその日、コペルニクスは脳卒中のため息を引き取ったと言われます。
コペルニクスの提唱した地動説が社会に受け入られるまでには、彼の死後百数十年という刻を要しました。
しかし彼がブルゼフスキから受け継いだ、地球が運動しているという宇宙観は、17世紀の科学革命をもたらし、その後の人類の社会のあり方を根底から変える第一歩となりました。
わたしたち人類はコペルニクス以来、その視点を大地上ではなく天空に置くことができるようになったのです。
それまでよりもひと回り大きな世界を見渡せるようになった人類は、眼下に広がる円い大地そのものをコントロールして、地球とその上で生きる生物たちの支配者として君臨し、あらゆる富を独占するようになりました。
その結果ヒトは地上に満ち溢れ、一つの地球上には乗り切れないほどの数となってしまいました。
今わたしたち人類は、プトレマイオスの天動説の矛盾に気がつき修正を試みたブルゼフスキやコペルニクスのように、現在の人類を動かしているチカラの矛盾に注意を払い、それを修正する必要があります。
40数個の天球を用いても説明のつかないプトレマイオスの宇宙理論と同じように、いくら複雑に上塗りをしても恐慌や格差拡大についての説明がつかない現代経済理論も、思い切ってシンプルで美しいものに差し替えるべきです。
「指数関数的な無限の成長」という世界観を、「持続可能な惑星の繁栄」という新しい世界観に書き換えなければ、地球が早晩破綻することは明らかです。
わたしたちには夜空を見上げ、海を眺め、山に登り、森に入って、ラファウやアルベルトのように、タウマゼインを感じることが必要です。
そうすれば人間中心の考え方から生命中心の考え方に、「コペルニクス的転回」をすることができるかもしれません。
地球や地球上の生命は、人類のために動いているわけではありません。
わたしたち人類一人ひとりが、地球や生命のために動くべきなのです。
いま求められているのは天動説でも地動説でもなく、人類が運動する「人動説」なのだと思います。