「語り」の根源性:語られた言論と書かれた言論の交錯、そこから哲学(史)が生まれる。納富信留『ソフィストとは誰か?』をよむ(7)。
アリストテレスの『二コマコス倫理学』(朴一功訳、京都大学出版会)と納富信留『ソフィストとは誰か?』(ちくま学芸文庫)を交互に読んでいくという試み。今回は、納富先生の第2部第8章「言葉の両義性」と結章を読みます。
摘 読:第8章を中心に。
ここで取り上げられるのは、今となってはほとんど注目されていないソフィスト・アルキダマスである。彼はゴルギアスの弟子であり、在世中にはきわめて重要で有名な弁論家であった。にもかかわらず、すでに紀元3世紀のフィロストラトスの『ソフィスト列伝』において、その名前は見られない。ルネサンス期以降や19世紀に刊行された弁論家作品集ではゴルギアスと並んで、アルキダマスも収録されていたが、現代に近づくにしたがって、その名前は見えなくなっていった。
その最大の理由は、アルキダマスが人前で演示した弁論は、どれほど優れたものであり、聴く人々に強烈な印象を残したとしても、人々の記憶からはすぐに消えてしまったからである。加えて、「書かれた言論」の「語られた言論」に対する優位という、文化史的・哲学的問題も存在する。
この『ソフィストとは誰か』において現存全文が紹介されている『書かれた言論を書く人について、あるいは、ソフィストについて』において強調されているのは、書くことよりも語ることである。それは、書かれた言論よりも語られる言論のほうが「時宜に適う」からである。アルキダマスによれば、書くことが精確さを求めるのに対し、語ることは即興を真髄とする。書くことは多くの時間をかけて修正を加え、先行例を収集して真似できるので、素人にさえ容易な、ありふれた営みであると彼はいう。それに対して、時宜に応じてその場で適切な考えを言葉に組み立てることは、長い訓練が必要な困難なことであるというのが、アルキダマスの考え方である。しかも、日常の生においては時宜に適うことのほうが重要である。そこでは、予期せぬ状況に瞬時に対応し、適切な言論を与えることが大切になるからである。アルキダマスによれば、書き言葉はそのチャンスを逃し、臨機応変な対応ができない。
さらに、書き物においては精確な記憶を必要とし、それを語る場で忘却すると変更が難しく、重大な問題を引き起こす。一方、即興的な言論は「アイデア(エンティテューマ)」への集中が核となる。少ない数の「アイデア」を習得しておけば、多彩な言辞を用いてそれを一度に明示できる。そこでは、失念はあまり大きな問題とはならず、つねに柔軟な対応が可能である。
このような観点に立って、アルキダマスは、よき語り手になろうとする思慮のある人は、即興的に語ることの訓練に励み、他方で書くことを「遊び、副業」と見なすべきであると主張する。
このような主張の背景には、古代ギリシアにおける書き言葉の文化の成立と発展が関係している。古代ギリシアにおいてフェニキア文字が輸入され、表音文字として用いられるようになったのは古くて紀元前10世紀、一般的には紀元前8世紀ごろと推定されている。ちょうどこの時期に、盲目の詩人とされるホメロスの英雄叙事詩が成立したとされる。この時代は、文字に書き記すことなしに、言葉を韻律にのせて歌った。詩作品は全て暗記され、口承によって伝達され、人々の前で演じされていた。歌い手(アオイドス)は神々からインスピレーションを受けて即興的に歌う専門家であり、それを記憶して再現するのが吟唱詩人(ラプソードス)であった。両者は、いわば作曲者と演奏家の関係にあたる。
こういった口承文芸が主流だった時代、文字はすぐに実用化され普及したわけではなかった。当初は「書かれた知恵」には神聖な意義が含まれていた。それがヘラクレイトス以降、哲学の手法として書くことが積極的に利用されるようになった。バビロニアからもたらされたデータから独自の理論化をとげる天文学や、ピュタゴラス派ともかかわりながら発展する数学や音楽も、文字による表記や記録をともなっていた。この紀元前6世紀から紀元前5世紀にかけて、文字を用いた学問研究が残されるようになる。
ただ、叙事詩や抒情詩といった詩の伝統はあくまでも「語り」にあった。書かれた詩が文献学的に編集され、批判的に研究されるようになるのは、ヘレニズム期のアレクサンドリア図書館においてであった。また、アテナイで興隆した悲劇や喜劇も、基本的には一度限りの演技(パフォーマンス)であった。それが、ポリスから任命された詩人(作家)が台本を準備し、それがのちに何らか公刊され、普及したと想像される。アルキダマスが書かれた言論を評して「詩作品」に似ている、あるいは「舞台演技や朗読」のようであるといったのは、このような時代背景を映し出している。
このように、ヨーロッパにおいて古代ギリシアが初めてアルファベットを導入し、それを用いた書き物の文化を打ち立てた。しかし、それは「書く」ことへの評価が「語る」能力への評価を上回ったことを意味しない。古代ギリシアにおいては、貴族政や民主政が主であったため、独裁的な権力が育たなかった。そのため、説得がきわめて重要な意味を持っていた。ここでは、当然「語る」ことが重要になり、書かれた弁論はその派生物でしかなかった。
それが、紀元前4世紀ごろになるとイソクラテスのように(か細い声であったこともあってか)言論を「書き物」を通じて闘わせる傾向が強くなっていく。プラトンもまた『パイドロス』において、書かれた言論を批判している。ただ、プラトンは師のソクラテスがつねに人々と対話し、語っていたにもかかわらず、何一つ書き著しはしなかった、その対話を「書かれた言論」にした。プラトンは、アルキダマスによるある意味で単純な「書かれた言論」への批判を、語り言葉と書き言葉が対をなし、相互補完的に哲学を遂行するというかたちに転換し、哲学の本質へと深めていったのである。
このアルキダマスの議論は、プラトンやアリストテレスによって、ある意味で批判的に継承されていった。例えば、ゴルギアスやアルキダマスによって積極的に意義づけられた即興は、プラトンにおいては「素人の即興」といったネガティブな表現で用いられている。一方、アリストテレスは『詩学』第4章において、詩作と悲劇が「即興」から発展したと述べている。また、アルキダマスが強調した時宜に適うという点も、プラトンは『パイドロス』において認識した「書かれた言論」への重要な批判であった。そして、プラトンは、時宜がその場の聴衆の感情や欲求に狙いを定める点を批判し、反駁する。さらに、「エンティテューマ(アイデア)」の議論に関しては、アリストテレスが同じ言葉を用いながらも、アルキダマスとは異なる用法を展開する。
「語られた言論」を重視するアルキダマスは、伝統的なソフィスト術の限界や、歴史における忘却に気づいていた。そして、アルキダマス、あるいはその師のゴルギアスが重視した「語り」をプラトンやアリストテレスは共有していた。それは、「語られた言論」を重視しながらも、それを書き残すというジレンマも含めてであった。しかし、以後の哲学理論はそういったジレンマも含めて、弁論術が持つ豊かな「言論」の力を覆い隠してしまうことになるのである。
私 見:結びも含めて。
「結び」も含めて、ここでは総括的に考えてみたい。
語られる言論の時宜性
この最後の第8章はゴルギアスの議論以上におもしろかった。個人的な話になるが、2月17日に中小企業家同友会の中河内ブロック(東大阪&八尾)で話をさせていただく機会があった。ただ、単なる講演ではなく、基調講演(10分)とパネルディスカッション(40分)という構成だった。当然のことだが、研究者が集まる学会ではなく、また学生を相手にする講義とも異なる。となると、当然ながら伝え方は変わってくる。スライドは準備しているし、それにもとづいて話をするわけだが、読み原稿を用意しているわけではない。当座のフロアの視線であったり、温度感であったりを見計らいながらしゃべることになる。
とはいえ、私も書き言葉をベースにする人間である(多分)。となると、話し言葉で伝えるときには、かなり意識的になる。そういえば、コロナ禍に襲われたとき、メイン講義である企業行動論を12回分ほどnoteに書き起こしたのだが、これは「読むラジオ講義」(=各自、再生してね)というスタンスのものであった。
このように、たしかにアルキダマスが言うように、語られた言論が時宜性を濃厚にもつと言うのは、個人的に「まさに」と感じるところがある。
しかしもちろん、同時に書かれた言論が精確な引用参照や議論展開の構成を要求する点で、きわめて重要であることも事実である。それは、安定した議論を可能にする。
ソフィストの存在と哲学史
ただ、プラトンやアリストテレスは、そういった「語られた言論」と「書かれた言論」のそれぞれの優位性と劣位性を認識していた。そのことが、忘れ去られてしまったことを納富は指摘しているわけだ。このソフィストが重視した「語り」においては、「叙事詩や悲劇の言説を模倣し、自然科学の知見を利用し、裁判や審議の場で実践的に活躍し、抽象的な理論を駆使して自らの立場を表明する。だが、それは、そもそも領域や境界性を取り払った自由で総合的な議論というものではなく、その都度、領域を越境し、それを動かすことで生じる「知の揺らぎ」を活用する」(納富 2006=2015; 344頁)。その意味において、ソフィストは潜在的・顕在的に哲学を覆すべく言論を動かしている、尖鋭な知的挑戦であった。その意味において、ソフィストは単なるレッテルや仮構ではなく、生まれ確立しつつある哲学という営みへの対抗、挑戦、パロディとして、何らかの思潮をなしている。そう考えると、ソフィストを忘却の淵から呼び戻すことが、逆説的にも、現代において真に哲学を追求する可能性なのである。
(このパラグラフ、納富 2006=2015; 344−346頁にもとづいている)
ここから、納富が哲学史をきわめてダイナミックに描き出そうとしていることが見えてくる。ソフィスト的な主張というのは、時として危険である。過激である。ソフィストそのものではないにしても、例えば、イタリアにおける未来派という存在がファシズムと結びついたというのは事実である。そうしたら、未来派をただ抹殺してしまうだけで事は済むのかというと、そうではない。それがどういった影響を与えたのかを問い、その歴史を編んでいかなければならないだろう。
余 滴。
ギリシア悲劇が、もともと即興的なものであったという点は、能好きな私にとって興味深い点でもある。
というのも、能を大成したとされる世阿弥は、自ら詞章(だけでなく、演劇論なども)を文字化できたからである。もちろん、他の能作者で世阿弥以前に文字を書くことができた者はいたかもしれない。しかし、父の観阿弥も文字を書けなかった可能性がある。
また、能でよく上演される演目の一つ『葵上』は設定上、『源氏物語』からかなり乖離しているとも指摘されていて、もしかすると伝え聞いた『源氏物語』の断片から作者(誰かは不明)が原典に当たることなく、イメージだけを膨らませて、当時の観客の好尚に合わせてつくられた作品と見ることもできるかもしれない。そういったことを考えると、能の生成期にあっては、きわめて即興的な性格が色濃かったとも考えられる。
逆にいえば、能が現代に生き残っているのも、書かれた詞章が残ってきたからだともいえる(実際、世阿弥の自筆本は現存しています)。
そうそう、『平家物語』も語り本系と読み本系という大きな2つの流れがあったような気がする。
おわりに:語られる言論が残って、拡がって「しまう」現代。
ソフィストの議論がほぼ忘却の彼方へと置き去りにされてしまったのも、それがその場で消えてしまう音声のわざだったからだろう。
ところが、現代においては動画や音声メディアといった媒体が存在する。それゆえに、本来ならば瞬間的なわざであったはずの言論が記録化され、それがあっという間に伝播するという事態も生じている。
これをどう捉えればいいのだろう。これもまた、思索の歴史を織りなしていく要因として位置づける必要があるのだろうか(そうすべきだとは、まだ言い切れる気がしない)。
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