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経営する対象となったチーズ。キンステッド『チーズと文明』を読む(5)「ローマ帝国とキリスト教:体系化されるチーズ」

今回は、この本の第5章を読みます。今回はローマ帝国の時代。

摘 読。

エトルリア時代のチーズ製造の発達。

イタリア半島において、穀物の栽培と畜産が近東から入ってきたのは紀元前5000年ごろ、紀元前3000年代までには農業が二次生産物を生む家畜の飼育に重点を置くようになっていた。このころには、チーズ作りがおこなわれていたこと、羊やヤギを飼育してミルクを得ていたことが、発見された陶製裏ごし器の穴のあいたかけらや骨の変化から推定される。ただ、海岸に沿った低地と半島の谷間にのみ集中していて、農業に従事する定住者は多くなかった。

そして紀元前2000年代の終わりごろには半島の中西部地方がエトルリアとして知られるようになり、銅や錫、鉄の鉱石を多く産出したことから、銅器時代エトルリアの冶金術が開花し、それを経済的土台とした文明が築かれた。そういった技術はエトルリア人貴族の高級志向にも結びつき、それが貿易熱へとつながっていく。

紀元前1000年代の終わりごろからイタリアの青銅器時代が始まる。そのころには人口が急激に増加し、低地に多くの定住地が生まれた。これとともに、アペニン山地の高地にある牧草地が、家畜の季節移動に広く計画的に利用されるようになった。このころに、ミルク沸かしという陶製の容器が広範囲にみられるようになった。これは酸と加熱による凝固を利用してリコッタタイプのチーズを作る際、高温でミルクを沸かすときに起こる泡立ちと噴きこぼれを抑えるような仕組みになっていた。この泡立ちと噴きこぼれは、カード部分を集めることを難しくさせるのだが、それを抑える優美なデザイン(南部で使われたろうそく型と、北部で使われた逆さになった漏斗型)のミルク沸かしによって、リコッタチーズの生産が定着した。このミルク沸かしはアペニン地方では19世紀になっても利用されていたし、今でも使われているという。

さらに、チーズの製造過程で出るホェイを食べる家畜が豚であった。豚は雑食なので、ドングリやブナといった木の実だけでなく、ホェイまで餌になった。しかも、豚は多産。肉の重要な供給源となった。

エトルリアの変貌、そしてローマへ。

エトルリアでは、さまざまな周辺地域の文化が流入し、エトルリアの文化それ自体も変容した。中央ヨーロッパの火葬骨壺墓地文化に由来する金属加工術と製陶術、ギリシアからやってきたミケーネ人たちとの貿易によって伝わったギリシアの高価な品物、それにともなうエーゲ海文化の流入など。こういった流入と混淆によって、エトルリアの社会や文化に変化が生じ、都市国家へと変貌を遂げた。そして、居住地の面積も拡大し、少数の貴族階級によって支配されるようになった。ミルクやチーズなどの二次生産物のための畜農業も盛んになった。紀元前900年ごろには中央イタリアに製鉄の技術が伝わり、それをうけて都市文化がさらに洗練されていった。鉱山業や冶金術の技術進歩とそれにともなう土木工学の隆盛、道路の建設や都市計画、排水法と灌漑法、建築での急激な発展など、多くの技術が進展した。それによって、美術的・宗教的な表現も開花した。こういった進展は、上流階級における輸入贅沢品の需要も高める。エトルリア人の商人階級は、ギリシアやカルタゴとのあいだに海上交易網を構築し、取引関係を拡大していった。

そのころには、チーズのおろし金が見られるようになった。これと同時にミルク沸かしの使用が急激に廃れている。これは、堅いすりおろしチーズが高い評価を得るようになったことの現れであり、ギリシア人から受け継いだ文化がイタリアにも浸透しつつあったことを示している。つまり、レンネット凝固による熟成型のペコリーノやカプリーノチーズへの転換がみられるわけである。こういった食の変化は、市場取引を通じた好み、そして需要の変化のあらわれなのである。

エトルリアは、人口の爆発的増大によって領土を南方に拡大していった。その過程でローマをも占領した。これによって、ローマという場にエトルリアで開花した技術や文化が入り込んできた。ローマ人たちはエトルリア人に支配されつつも、そういった技術や文化を吸収していった。また、エトルリア人は北方にも拡大していった。そこで接したのがケルト人である。そこでの接点において、ケルト人はギリシア人やエトルリア人と交易を始めるようになる。そこでの交易品は、ケルトのエリート戦士階級が欲しがっていた地位の高さを示す品々、繊細な青銅器や鉄製の武器類、異国的な食卓用の入れ物、優美な陶器、ワイン、さらに饗宴や宴会といった文化であった。ケルトの側から提供されたものがどんなものであったのかはわかっていないが、金属や毛皮、羊毛、塩漬け肉、奴隷、琥珀のほかにチーズも含まれていたと考えられている。こういった交易が進むと同時に、対立もまた増加していき、結果的にケルト人はローマ化していくことになる。

紀元前5世紀の初めに、ローマはエトルリアの支配から解放される。そこからの300年くらいをかけてゆっくり膨張していった。当然、その際には周辺のライバルたちと紛争が生じた。戦いに勝つごとに、ローマは征服した土地の一定割合を没収し、ローマ人植民者に与え、植民市を建設した。そうすることで、占領地をローマ人の支配のもとに置き続けた。その結果、ヨーロッパ北部におけるケルト人は、ほとんどがローマの支配下に置かれ、ヨーロッパ大陸の大部分がローマ化されることになった。そして、もう一つの大きな対立がカルタゴであった。ここは有名な話でもあるので省略するが、結果的にローマはカルタゴを滅亡させる。

イタリアにおける農業の大規模な再構築、それを下支えした社会構造の変化。専門知識の充実と、製品の多様化。

このカルタゴとの戦争、ポエニ戦争はイタリア農業を荒廃させた。その結果として、大規模な農業再構築がおこなわれることになる。土地そのものの荒廃、農業の担い手としての成人男子の徴兵、海戦のための造船による山林の伐採とそれによる浸食である。加えて、シチリア島を併合したことで、シチリア産の安い小麦がローマに運ばれ、イタリア国内の小麦生産は崩壊した。一方で、カルタゴに対する勝利によって、奴隷労働力が大量に流入した。カルタゴだけでなく、ローマ帝国の膨張によって、その流入はますます増えていった。さらに、ローマの勝利によって、莫大な富がローマ人上流階級に集中した。いわゆる都市型社会の成立であり、同時に貧富の格差の生成である。

このようななかで、紀元前170年にカトーが、それに続いてウァロ(ヴァッロ)、そしてコルメッラが大規模利潤追求型大農場を組織化・最適化する意図で農業手引書を書いている。

カトーは、小規模な家族経営農場に代わって登場した、地主不在の大農場の経営手腕のまずさと不注意な環境管理に不安を抱き、『農業論』を執筆した。そこで、換金作物としてのオリーブオイルとワインの生産、二次生産物としての家畜に注目している。そして、戦略的経営方針(!)として奴隷の使用を想定していた。カトーはチーズそのものについてはあまり詳しく言及していないようだが、ケーキのつくり方には相当のページを割いている。ギリシアと同様、ローマでも宗教的儀式においては捧げものとしてチーズケーキが供えられていた。こういった内容を見ると、いわゆる日々の生活のための農業というより、商業的農業が意識されていることがわかる。そして、そういった商業的農業は「豊かさ」を実感させるものであり、食文化の開花と歩調を合わせるものであった。

ウァロ(ヴァッロ)は、カトーの130年後に『農業論』をまとめている。ヴァッロ自身は大農園に生まれ、一生を農業体験のなかで生きた。ヴァッロはチーズ製造に関しても詳細に叙述している。とりわけ、レンネット凝固については具体的な数量を用いて記述している。一方で、リコッタチーズに関してはまったく言及していない。その理由は判然としないが、リコッタチーズが壊れやすく、保存期間がひじょうに短いこと、それゆえ近隣の地域までしか流通しなかったことなどが考えられる。

さらに、コルメッラは1世紀ごろに南スペインで生まれ、紀元60年くらいに『農事論』を執筆した。これは全12巻にもおよび、第7巻ではまるまるチーズ製造のプロセスとその管理について述べている。基本的には熟成チーズについての説明がほとんどであるようだが、フレッシュチーズについても「新鮮なところを数日以内に食べきるチーズ」というかたちで触れている。さらに、「手でプレスした」チーズとして熱湯を使う製法についても述べられている。

こういった、多様な製法の普及は製造技術の向上・充実とともに展開される。大型チーズが出現するのもこのころであるが、その際には腐敗しないような製法や技術が必要になる。ここでもケルト人がその生活のなかで編み出してきた製造や保存の技術がローマに流入してきた可能性がある。実際のところは推測によらざるを得ないが、高温の加熱と圧搾、塩の利用、あるいはそれらを組み合わせた方法などが発明され、今日知られている主要なグループのチーズが始まっていったわけである。

このケルトとローマの融合によって、それまでと異なる新しい文化が生まれたのだが、チーズ作りとチーズへの愛好は引き継がれていった。

キリスト教とチーズ。

本章では、キリスト教の誕生と宗派分裂、そしてチーズに対する捉え方も述べられていて興味深い。キリスト教はもともとエルサレムを中心としていたが、ローマによるエルサレム破壊(紀元70年)のあと、西方のローマへと移動していった。そのプロセスのなかで、さまざまな文化への浸透と同時に、キリスト教の信仰とその儀礼、公式の経典を打ち立てて統一性を維持していくという困難に直面した。

ギリシア・ローマ世界では、異なった宗教的伝統を融合し、新しいかたちの信仰を形成するシンクレティズム(混淆、諸教混淆)が深く根を下ろしていた。キリスト教もまた、これにぶつかることになった。紀元200年ごろ、カルタゴに生まれ、ローマ市民となったテルトゥリアヌスは、聖書にもとづいて教会の教義を純化し、「信仰の掟」としてまとめあげた。

テルトゥリアヌスはキリスト教の教義の核の一つに、イエスの受肉とその中心にある処女懐胎があると捉え、どう説明するかに苦心していた。その際、アリストテレスの『動物発生論』における胚の発生の記述、そしてそれがレンネット凝固にヒントを得ているところから説明しようとした。この考え方はキリスト教において支持され、イエスの身体性を否定するドケティズム(仮現説)は異端とされた。

ところが、時代が下ると、聖餐式でパンの代わりにチーズを用いることが問題視されるようになる。そして、聖霊信仰に立脚するモンタヌス(モンタノス)派が異端とされるようになると、キリスト教の儀式に浸透してきていたチーズは根こそぎ排除された。

私 見。

この章、経営を考えるうえでも、ひじょうにおもしろい。やたら高額がついているが、実際にめちゃくちゃ分厚い経営学史(ドイツ語圏なので、経営経済学史)の本である↓では、古代ギリシアの頃の文献から博捜していて、院生時代にほんの少しだけ読んだのだが、ただでも難解な文体と併せて卒倒しそうになったのを憶えている。

このシュナイダー(Schneider, D.)の文献でもカトー、ヴァッロ、コルメッラは登場する。Schneider, D.[2001](S. 108 ff.)は経営経済学史の一コマとして、古代から17世紀までの農業経済学における計画と組織という節を設けている。ちなみに、この3人のあと、続いて採り上げられているのは14世紀の著述である。シュナイダーもそれぞれについて、それほど詳しく論究しているわけではない。カトーに関しては、意思決定の分権化にまったく目を向けていないことを(おそらく、若干否定的に)指摘している。ヴァッロについては固定費や変動費の問題に言及していたことや労働力としての奴隷の問題、それにかかわる(現代でいうところの)企業倫理の問題などに言及していたことに触れている。さらに、コルメッラに関しては、投資計算や経済性計算の嚆矢として、そしてそこから展開される経営計画やマーケティングの先駆者としての位置づけを与えている。

以前に読んだブローデルでも感じたことだが、ヨーロッパにおける経営学の考え方をみるときに、農業経営というのはけっこう重要な底流となっているように思う。経済学においても、生産要素を土地、労働、資本の3つに見ていたことも、やはり農業に由来する。

あと、この章では労働力としての奴隷についても話が出てくる。

この本、買った記憶がないので、まだ持ってないかもしれない。立ち読みでおもしろかった記憶はあるのだが。また買おう。

こちらは、アメリカにおける人的資源としての奴隷と会計とのつながりを論じた文献で、なかなかに興味深い。

さて、この章を読んでいて興味深かったのは、それまで生活食糧であったチーズが、社会構造の変化とともに嗜好性の側面を持ち始めた点である。もともとは、それぞれの人々の生活(生命維持としての食、さらに宗教的な供物として etc.)から生まれ、そのなかで製造技術の進展があった。もちろん、そのなかで味の洗練もあったであろう。ただ、嗜好性が高まるというのは、交易という民族間のやり取り / 交換行為があってのことであった。今まで知らなかった味に対する高い評価、あるいは入手しにくさゆえの高い評価など。同時に、社会構造の変化の一環としての貧富の格差の発生は、より美味しいもの、より珍しいものといった評価軸を生み出す。ちなみに、コルメッラの農業書について、シュナイダーはそのマーケティング的な側面を指摘している。

さらに、貧富の格差を生じさせもした要因の一つであるローマの帝国的拡張もまた、農業生産の質を大きく変容させた。

すでに古代ギリシア、あるいはそれ以前においてもチーズが交易の対象となってはいた。しかし、古代ローマにおいて、その側面はより濃厚となったといえる。つまり、商業的・工業的な視座にもとづく農業生産が前面にあらわれてきたわけだ。その点で、シュナイダー、そしてキンステッドがカトーやヴァッロ、コルメッラの農業書に注目したというのは、書物が現在にまで伝承されているという事態もあるにせよ、一つの画期であったといえるだろう。

にもかかわらず、シュナイダーもそのあと14世紀まで類書が出なかったとしているように、そしてキンステッドも次章で修道院でのチーズの話に進むように、これらの農業書が示した経営的側面は必ずしも直線的には受け継がれなかった。このあたりのヨーロッパにおける中世というのがどういう社会構造を持つ時代だったのかも興味深いところである。ちなみに、日本において中世と呼ばれている時代は、一般に武士の時代と言われているが、一方で商業や工業も進展したdynamicな時代でもあった。

それにしても、古代ローマという時代もなかなかにおもしろい。

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