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関係性が空間をうみだす。F.ブローデル編『地中海世界』摘読(6)「空間」を読む。

文化の読書会、『地中海世界』摘読第5回です。この読書会の経緯については、第1回のnoteをご覧ください。

[摘 読]

地中海世界の場は、強靭な都市・村落の網目、つまりネットワークの周りに生まれた。このネットワークが地中海世界に活力を与え、生かしている。

都市においては、社会的関係を空間的次元に置き換えたものとして、境界線の束によって貫かれると同時に、構造化された空間が生まれる。

この都市のなかで、外界から隔てられている家という空間は、基本的な生産的活動である食事や睡眠、生殖の場であり、家族と私生活の領分である。それを担うのは女性であった。それを守るのが男性であり、そこに名誉という概念が生まれる。名誉が個人的な性格を帯びるようになるのは、キリスト教社会になってからのことである。都市において、家というのは私秘的空間として位置づけられる。

それに対して、あらゆるところで優先的に男に留保されていたのが、公的空間である。この公的空間とは、労働のない行為の空間として存在し、儀礼と祭の、行為と催物の、レジャーと遊びの場である。

都市は、政治的であると同時に、宗教的な性格を持つ中心なしにはあり得ない。神の保護のもとに置くという囲いなしには都市はありえず、はっきり読み取ることのできない方向なしにはあり得ない。都市は、人々が財貨のみならず、記号や象徴を交換する場として組織されている。その場は、広場にある。都市が大きくなればなるほど、広場は数を増し、特殊化していく。大広場を頂点として、社会生活の階層性を反映した複雑な、そっくり一つの階層性がそこに描きあげられる。それぞれの共同体にそれぞれの広場ができる。

都市は独自のリズムを押し付ける。それは、討議であったり、散歩であったり、ゲームであったりする。都市において存在を認められている商業や財貨の交換は、無為閑居の諸価値、レジャーのリズムに合わせて行われる傾向があった。

その象徴が、集団の凝集力を体験させるような大規模な催し物である。それは演劇であり、スポーツであった。スポーツが内包する機能は、観客が抱く情念をその極において、いわば暴力的に浄化するところにある。凱旋式において勝利を祝うのもそのためであり、その瞬間、町全体はチーム全員と一体感に浸るのである。

そして、その見せ物が闘技場やスタジアムを離れて、街そのものを舞台に選んだとき、演技者と観客を隔てていた境界は突き破られ、住民全体または一部を祭典へと巻き込んでいく。

祭りは、若者たちに課せられた肉体的試練というスポーツ的側面と同時に、街の区域どうしの融和をめざすという政治的・市民的側面も有している。つまり、都市創設の協約を新たにして、つねに危険にさらされている脆い空間の一体化を図るのが、祭りの本義なのである。

[小 考]

本章は、ブローデルではなくモーリス・エマールの執筆になる。

ここでは、地中海世界における人間の生活空間がどのように形成されていったかが論じられている。上の摘読では〈家〉についての叙述を大幅に省略したが、プライベートな空間としての家、その境界が公的空間へとつながっていく論の運び(家→路地 / 街路→広場)は、視界が広がっていくような感覚があっておもしろい。

あまりまとまった考察ではないが、本章を読みながら想起した点を2つ。

一つは、〈経営〉という言葉の語源である。
経営というのは、土地に「筋道を引く」ことと「周囲を取り巻く」ことから生まれてきた概念であるという。本章のなかで、「規則正しい計画都市の場合には、そのプランの方向、直角に交わる幹線道路の方向、発展軸の方向など、どんな都市でもその座標系から自らの意味と実在性を引き出してくる」というくだりは、摘読では引用できなかったが、経営という概念を考えるうえでつながってくる。

読書会20200804_経営語源

さらに、本章ではローマにおける〈フォルム〉という広場についての言及もあった。いわゆる〈フォーラム〉である。じつは、経営学において、この〈フォーラム〉概念に注目した研究者がいた。ドゥウォーキンである。経営学者の北野利信は、このドゥウォーキンのフォーラム概念に注目する。

ここでは詳論する余裕がないが、あらためて検討するだけの意義はあろう。

もう一つが、〈祭り〉をめぐる意義である。これについては、以下の文献をあげておくにとどめたい。この文献は、すごくおもしろかった。

〈祭り〉とは何なのか、日本語において「まつりごと=政=祭祀」という言葉があることも含めて、議論してみたいところである。



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