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パン屋の太った店長と変わったお客さん達の思い出

人生で初めて働いたのは地元のパン屋だった。

高校を出たばかりの18歳の頃だ。
私はカナダの高校に通っていたので、6月に高校を卒業し7月に日本に帰って来ていた。大学入学は翌年の4月だから、それまでの間フルタイムで入れるバイトを探したのだ。

本屋や市場などいくつか応募し、8月から働き始めたのがスーパーの中に入っているパン屋だった。面接ではパン屋を選んだ理由を聞かれ、「美味しいパンを食べると幸せな気持ちになるからパンが好き」と答えたような記憶がある。

大学に入るまでの半年ちょっとしか働けないと言ったら雇ってもらえないと思い、「今後の進路はまだ決めていない」と言った。

時給は680円。週末は710円。
当時は十分高かった。

店長とスタッフは私を含め5,6人の、こじんまりしたお店だ。

***


私は店長のことが苦手だった。
店長もまた、私を好きではなかったようだ。

店長は丸々と太っていて、エプロンのひもの長さが足りていない。本当にちょうちょが止まってるのかと思うくらい、驚くほどちっちゃな蝶々結びをしていた。
キャップの後ろにあるサイズ調節用のパチパチとめるスナップは、頭が大きすぎるので全部はずしてかぶっていた。

まゆ毛が太く、かっぷくが良くて声も大きい。いかにも気の良いパン屋の店長といった風貌だったけど、人の悪口ばかり言う人だった。

バックヤードでは私に面と向かって「お前嫌い」と言ったり、邪魔だと言って蹴ってきたり、毎日そんな感じだ。

そんな感じなのに、店員に手を出して付き合いだし、店を辞めさせ同棲までしていたから、店長みたいな人間でも愛されるんだなと逆に希望に感じたりもした。

毎日嫌なことの方が多かったけど、私は不思議とそこまで気に病みはしなかった。若さゆえの強さで「嫌いなのはお互い様ですよ」とにっこり返して店長をたじろがせた。それに、来年には大学進学が決まっていたから、パン屋での人間関係は私にとって重要ではなかったのだ。


***


お客さんは良い人が多かった。
でも、たまにすごく変な人もいた。

中でも強烈に印象に残っているのは「レーズンおばあちゃん」だ。

腰の曲がったおばあちゃんは毎日のように来店してはレーズンのたっぷり入ったパンを買う。そしてレジで私に「これ使って」と何かを包んだアルミホイルをこっそり手渡してくる。

最初は中身が分からずすごく困惑したのだけど、とりあえず受け取ることにした。レジが空いたタイミングでアルミホイルを広げると、なんと中にはレーズンがたっぷり入っている。

つまり、おばあちゃんはいつもレーズンパンを買うけれどレーズンは食べない。一粒一粒パンからはずしアルミホイルに丁寧に包んで持って来て、再利用してもらおうとしているのだ。

もちろんレーズンはいつも受け取っては破棄していた。

レーズンパンは他のパンとは違うケーキに近い生地を使っていたから、おばあちゃんはその味が好きだったのかもしれない。それにしても不思議だったけれど。


他にも、お釣りを絶対受け取ってくれないおばあちゃんもいた。お小遣いにあげるよ、ということだったのだろうけど、受け取れないしレジが合わなくなるからちょっと迷惑だった。
あとは、トングもトレーも使わず手づかみでレジにパンを1つドンと置き、「このままでいいよ!」と豪快に笑いながらまた手づかみで持ち帰る米粉パンおじさん。

***


開店前のスーパーは薄暗く、静かでがらんとしていて、店員の作業する音だけが響く。

週5で朝8時からそんなスーパーの片隅で、私はせっせとコロネにチョコクリームをつめたり、フレンチトーストのパンを卵液に浸したり、食パンをスライサーで切って袋につめた。

開店直前、店内に明かりがつき急に陽気な音楽が流れ始め、スーパーが目を覚ます瞬間が好きだった。

人間模様にパン模様。
思い返すと楽しい経験をさせてもらったと思う。



思いがけず、パン屋は私がもともと辞める予定だった翌春に閉店することになった。

1年も経たずに退職を申し出るのは気まずいと思っていた私にとっては渡りに船だった。閉店が決まると、退職防止策なのか毎日みんなパンを1,2個ランチにもらえるようになった。

パン屋の跡地は他のテナントが入ることが決まり、他の店員はそのまま雇ってもらえるようだった。そのまま残る人もいれば、辞める人いた。跡地のテナントは15年ほど営業し、最近閉店したと噂に聞いた。


そういうわけで、半年ちょっとで辞める予定が結局私はパン屋の閉店を見届けることになった。そうそう出来る体験ではないので、最後の日は少しワクワクしてしまった。

その後も色々なバイトをしたけれど、初めて働いたあのパン屋だけはやっぱり特別に感じる。

だけどもう、あのパン屋のことを思い出す人は地元でもほとんどいないだろう、とも思う。

私は街のパン屋で焼きたての小麦とバターの香りを胸いっぱいに吸うたびに、確かに存在したあの日々に少しだけ、思いを馳せる。

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