3653回目の朝も幸せを願った
よく晴れた朝。
駅に向かう途中にあるレンガ色のマンションの前で、粗大ごみシールを貼られたセミダブルのマットレスが日に晒されている。
私は何故だか胸を締め付けられ、涙が出そうになった。
「恥ずかしい」という声が聞こえたような気がしたのだ。
道を急ぐ人たちが、マットレスの横を足早に行進していく。
体はここにあるのに目はきつくどこかを見つめ、心は既に職場にあるか自宅に置いてきたようだ。もちろん、粗大ごみなど気にもかけない。
私も気だるく職場へ向かう一人だが、どうしてもマットレスのことが気になった。一目で絶対に安物ではないと分かるほど重厚で、私のものとは全然違う。値段もきっと高かったに違いない。
マットレスの寿命は一般的に10年ほどというから、長い間ここで使われてきたのだろう。
今から書くのはそんなマットレスを見た時の、ただの空想のお話。
マットレスがこの家に来た日のことを思い描いた。
これからの生活に胸を高鳴らせ、楽しそうに家具屋でマットレスを吟味している女性の姿が頭に浮かんだ。マットレスを選ぶのは初めてではない。今回はちょっと良い物を奮発して買うのだ。
配送業者がそれをレンガ色のマンションの一室に搬入した時、マットレスは祝福をもって招き入れられ、薄暗い寝室で彼女と暮らし始めた。
「これからよろしく」
だけど、最初こそ寝心地に感動し無意味に手でふかふかと押したり、夜ベッドに入ると満足げに微笑んだ彼女も、1か月もすると興味を示さなくなった。部屋の背景の一つになってしまったのだ。
毎日、マットレスは彼女の体を支え包み込み続けた。
それが自分が出来る唯一のことだからだ。
雨の日も、雪の日も。
ライブのチケットが当たり、ベッドで小躍りした日も。仕事でミスし落ち込んで帰宅した日も。電話越しに親とケンカした日も。恋人と寄り添って眠った夜も、やがて恋人が去り枕を濡らした夜も。
決して人に見られたくない姿は大体の場合、寝室にあるのだ。
でもどんな姿だろうが、マットレスは何も言いはしない。
彼女が仕事や外出で家にいない時は静かに待つ。
シーツをかぶせられ、彼女を直接見ることも触れることもほとんどない。ただそこにいることだけが仕事だった。
来る日も来る日も彼女との日常を繰り返し、10年の月日が経った。ある日彼女は洗濯するためシーツをはがし、まじまじとマットレスを見た。
「古くなったね」
10年ぶりにかけられた言葉だった。
その時が来た、とマットレスは思う。
覚悟はしていたけど、突然だったな。
いや、覚悟なんて本当はできていなかった。
彼女は最近ベッドでスマホを触りながら独り言を言っている。
新しいマットレスを探しているのだ。
「やっぱり見てみないと分からないか」
そうつぶやいた翌日、彼女はどこかへ出かけて行った。
そして、ちょっと彼女の機嫌のよい日が続いた後のこと。
チャイムが鳴って、新しいマットレスが運ばれてきた。
彼女は新しいマットレスに夢中で、自分がこの家に来た時と同じ顔をしている。だけど彼女もマットレスも、少しばかり年をとった。
ふわっと、風が舞いシーツがはがされた。
ああ、これが最後なんだ。
もう二度と、彼女にシーツをかけてもらうことはない。
替えのシーツから漂う柔軟剤の香りを嗅ぐことも、疲れた彼女の背中を受けとめることも。古いマットレスはついに壁際に寄せられ、粗大ごみシールを貼られた。
日が昇る。
段ボールに入ってこの家に来たマットレスが太陽を直接見るのはこの時が初めてだった。10年間、暗い寝室で暮らしてきた体に日光が突き刺さる。
裸であられもなく路上に出されてしまった。
身を隠せるシーツもベッドも壁もない。周りはせわしなく人が行き交う。
一人だけ、ちらりとこちらを見たような気がした。
「恥ずかしい」
昨日まで、自分には明確な使命があった。
もう何もできず、何も持たない自分が恥ずかしかった。
彼女と過ごした思い出だけが走馬灯のようにぐるぐる巡り、眩暈がする。
「幸せでね」
細く、絞り出すように願った。
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