「ビジネスシーンを生き抜くための仏教思考」を読んで~利他じゃないと持続可能じゃない~
最近こちらの本を読んだ。
実験寺院 寳幢寺(ほうどうじ)というユニークな試みを実践している松波 龍源さんという僧侶の方が著者で、編集者は以前こちらの記事でも紹介した野村高文さんだ。
お二人のPodcast「ゆかいな知性 仏教編」がベースになっている書籍だが、Podcastの方も楽しくて何度も聞いてしまうほど。
「ゆかいな知性 仏教編」のさらに前作的位置づけの「a scope」についてはこのエントリで取り上げている。よければこちらも。
日本人は大部分が仏教徒でありつつも、仏教の教えについてはよくわかっていない人がほとんどなのではないか。私もその一人だ。
お葬式や法事で般若心経を唱えるくらいで、その意味も分からずに詠唱しているという感じだろう。
しかしこの本「ビジネスシーンを生き抜くための仏教思考」を読むと、今まで仏教のことを知らなかったのが本当にもったいなかったと思うほど、現代のビジネスパーソンにも役立つ教えなのがよくわかる。
全編本当に奥深い話ばかりなのだが、その中でも心に残った「利他」の話をしてみたいと思う。
「利他」というと「他者に利益を与えること」というのが文字通りの解釈だ。「私」と「他者」は区別されるものというのが普通の考えだが、仏教の形而上の世界では「私」と「他者」の区別はないとされている。
(この細かい説明は数ページにわたるのだが、ここでは割愛させていただく)
つまりは「私」と「他者」は、その本質は同等なので、利他は自分の幸せに繋がっているという理屈になる。
本書中ではそれを表す分かりやすい表現として
という説明もある。
ただ、バランスも大切で、日本のメーカーや飲食店が「消費者が喜ぶから」と価格の安さを追求したとする。一見自社売上が上がって消費者も安く買えてWinWinっぽいが、実際には自社は薄利で利益が上がらず、社会全体もデフレで給与が上がらないという状況になってしまうということが、まさに現実に起こっているわけだ。
これを著者は「自分も他者も同じネットワークの一部という視点の抜け落ち」と指摘している。
もちろん自分だけ利益が上がり、他者が犠牲になるのは論外で、筆者も
と指摘している。
例えばテロの背景には、テロリストの貧困が遠因になっていることが多いという話。確かに日常生活に余裕があればわざわざ命をかけてテロ行為に走ったりなどしないだろう。
そういえば京アニ放火の容疑者も、直前に生活保護申請が断られたという報道があった。役所レベルではいたずらに生活保護申請を受理しないというのが市の財政的に最適解だったのかもしれないが、その結果より大きな代償を社会が払うことになったとも言える。(まだ裁判中なので本当の動機は分からないが)
自分の日々の仕事とも照らし合わせてみたい。
まさに「ビジネスシーンを生き抜くための仏教思考」の本領発揮だ。
例えばタスクの配分。
ある人のタスクが溢れそうだとする。
自利だけを考えると「それは私の仕事ではない」と言って助けないというのが最適解かもしれない。
だが、タスク溢れの人を助けないことで、組織全体が目標を達成できずに自分の給料も上がらない、最悪会社がつぶれるということもあり得る。
また、自分がタスク溢れで困った時にも、前に助けていれば「お互い様」ということで助けてもらえるかもしれないが、見捨てていたらどうだろうか?
一時的に「よかったよかった、火の粉が降りかからなくて」で済んでも、その先のことを考えると持続可能ではないことがわかる。
利己的に生きるとどこかで持続可能ではなくなってしまう。利他でなくては持続可能じゃないのだ。
これ、頭ではわかっても、当事者になった時にその通り利他で行動するのは結構難しいと思う。特に自分に余裕がないときは自利を優先してしまいがち。そういう時に冷静になれる、自分を一つ上のレイヤーから客観的・俯瞰的にみるメタ認知についても仏教の体系には含まれている。いやはや奥が深い。そして「悟りの境地」とは途方もないことなのだな。
伝えたいけど難しい、でも伝えたい、そんな仏教の「利他」について語ってみました。ではまた。