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【いそがしいとき日記】その21
日々、「ヤマガヒ」をつくっています。
僕たち俳優は劇団に所属していない限りは、関わる作品ごとにそれぞれ雰囲気の異なる現場で仕事をするわけですが。
この「ヤマガヒ」という作品の創作現場はすこし特殊な環境で、普段はそれぞれ別々の場所で活動をしているけれども、近い共通言語を持った表現者が集まっています。
今回初参加のメンバーもいますが、多くの出演者にとっては「再演」ということもあってか、大事に大事にディスカッションと稽古を積み重ねています。
ただ、「大事」に思うからこその苦しみ、みたいなものもあって、つまり、大事だからこそ初演の亡霊みたいなものに取り憑かれて新しい選択をし難いとか、大切に思うからこそ壊したり粗雑に扱うことに臆病になるとか、そういうことも起きるようです。
でもね、クリエイションの場において、過去の成果を後生大事に抱きかかえていても百害あって一利なし。大切なものだからこそ、時にはそこから手を放し身を引き離し、壊してしまっても構わないと思うぐらいの覚悟を以って挑むことこそ重要。
「こうすれば正解だったはず」「これをしておけば間違える可能性は低い」みたいな安心・安全・傷つかない領域からどうやって抜け出すかが勝負の為所。
さまざまな創作現場には、その場所その場所に固有の「大切なものの優先順位」があるわけですが、この「ヤマガヒ」の現場は、「一心不乱に創作をする」ということこそ最優先のまま、楽日まで突き進んでいければと切に願っています。
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このところ、舞台を観にいったらその感想のようなものを、Twitterに140字以内でしたためることにしています。
ツリーにして複数ツイートをすればたくさんの情報をアウトプットできることはわかっているのですが、基本的には140字という分量でどこまでその舞台を文字として切り取れるかの挑戦をしている意味もあるので、1ツイートだけで収めています。
舞台俳優のよくある観劇報告だと、前の共演者と写真を撮ってそれも掲載するのが定石ですが、僕は「せっかく書くことが好きなのだから」と思って、写真を掲載せずに、文字だけで観た舞台をまとめようと思っています。
お客さんにしたら俳優たちの楽屋前ショットがみたかったりするのかもしれないなあと思いつつも、僕自身も舞台に関わる立場にいるからこそ、舞台の中身・構造・表現の形態などにスポットを当てた作品紹介こそ必要なんじゃないかなと感じています。
あと、嘘をつかないようにしようっていうのもルールとして決めています。
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舞台を観にいくときに感じる「お金の重さ」って、なんともいえない不思議な感覚があります。
舞台って、お世辞にも安くはないチケット代がかかるわけですが、例えば5000円なら5000円、10000円なら10000円っていう値段のチケットを買うときに、普段だったら「けっこうな金額だな」と思う額の紙幣を
「この引換券渡せば芝居が観れる〜〜」
ぐらいのラフさで扱っている瞬間があるのです。
お金を軽く扱っているわけではないし、演劇をひょいひょい観られるほど湯水のようにお金が有り余った生活をしているわけでもありません。どちらかといえば「よく生きてるわ自分」ぐらいの金銭感覚で生活してるんですが。
芝居を観にいくとなったときの、お金を払うことの心的ハードルの低さよ。
マジで、自分に驚く。
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舞踏家の大野一雄さんがとあるインタビューで
こう、いちに!と腕を伸ばしてしまえば、この(指先の)ところで終わってしまうが、そうでなくこう、すぅーーーー・・・っと伸ばしていくとどこまでもどこまでも伸びていくわけでしょ、どこまでも、宇宙までも
というようなことを仰っていたのですが(文字だと伝わりにくい・・・悲)
まさにそうだなと思います。
身体の表現が持っている可能性というのは本当に無限大で、西洋のバレエのように型とマイムで美と物語を紡ぐこともできれば、能のような身体をもって現世と宇宙空間や空(くう)を行き来することも可能なわけです。
同じスタイルで舞踏に打ち込んでいる人々の舞台を観ましたが、その人それぞれに全然違う身体性を持っていて驚きました。いや、当たり前なことなんだけど。
どれだけ何かを表現しようとしていてもリノリウムの床が見えてきてしまう身体があると思えば、ただそこに佇んでいるだけでこちらの視線が勝手にズームアップになって周りの舞台の様子なんぞ目に入らなくなっちゃうような身体。
東京の片隅にある劇場の無機質な舞台の上だとわかっているのに、その人がそこを歩くだけで土の匂いや森の中の大気が見えてくるような身体。
同じ振り付けでも、手が命を吸うように伸びる曼珠沙華のように見えてくる人もいれば、ただ赤く塗られた手が力を込められて無様に蠢いているとしか見えない人もいる。
こういう舞踏的な観点の身体は、ミュージカルの世界ではなかなか評価されないと思いますが、僕はね、いつかどこかで、こういう身体性をミュージカルの中に組み込んでみたいと思っています。
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読んでくださってありがとうございました!サポートいただいたお金は、表現者として僕がパワーアップするためのいろいろに使わせていただきます。パフォーマンスで恩返しができますように。