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青白い燐光が立ち上る絵~広島原爆死没者追悼平和祈念館にて
2024年の夏、妻と広島や宮島へ旅行した。厳島神社の鳥居の修理が終わったタイミングで行こうと前から計画していたものだ。
忙しくてまだ写真の整理もできておらず、いずれ一段落したら旅の記録と感想をまとめようと思っている。
といっても、いつになるか分からないので、特に印象に残ったことを1つ書いてしまおう。
直筆で書かれた義父の被爆体験記と対面
その日の午前中、真夏の日差しが照りつける中、原爆資料館(広島平和記念資料館)に向かう前に国立広島原爆死没者追悼平和祈念館を訪ねた。
今は亡き義理の父は、8月6日に広島の爆心地近くに入り、原爆投下直後の惨状の中で、負傷者の救護や遺体の収容などに奔走したそうだ。
あの当時、放射能についての知識などないから、近隣から現場に入って救護活動をした人たちは軒並み被爆した。義父も被爆手帳を交付されている。
その義父が後に被爆体験を証言として残し、それが原爆死没者追悼平和祈念館に保管されている。
証言はデータベースを検索して読むことができる。
だが、当館へ行けば本人の書いた直筆原稿(電子資料)が見られるというので、妻はかねてよりそれを見たいと言っていた。
念願かなって感無量の様子の妻。
それはそれとして、私は企画展「暁(あかつき)部隊 劫火(ごうか)ヘ向カヘリ~特攻少年兵たちのヒロシマ」の展示とビデオ映像に衝撃を受けた。
企画展「暁部隊 劫火ヘ向カヘリ~特攻少年兵たちのヒロシマ」
暁部隊は、特攻艇(通称マルレ)に乗り込む少年兵たちを訓練する部隊である。
広島に原爆が落ちた直後、部隊司令官は「本務を捨てて広島市の救護に立て」と檄を飛ばし、少年兵たちは「広島市内へ急行。道路上のガレキの撤去や被災者の看護、遺体の処理に従事」したという。
その後、敗戦までの間に彼らが特攻出撃したのかどうかわからないが、生き残った者は皆、放射能を浴びて長く辛酸をなめたことだろう。
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![](https://assets.st-note.com/img/1738406173-g0XdUY6krBPNKLSifZb32vph.jpg?width=1200)
上に挙げたチラシは追悼平和祈念館のウェブサイト「開催中の企画展」からダウンロードできる。
無数の青白い燐光が立ち上る絵
この展示もさることながら、私は上映されたビデオの中にあった1枚の絵が強く印象に残った。
それは広島駅で、焼けて無惨な姿をさらした路面電車の周囲から無数の青白い燐光が立ち上っている絵だった。
![](https://assets.st-note.com/img/1738407376-yL7EPOrpRwCcelJgusFaKk6v.png)
原爆投下による地獄絵図はこれまで何度も目にしたけれど、こういう絵を見たのは初めてだ。
燐光(リンの光)とはいったい何なのか?
「あの絵は誰が描いたものですか? 静止画像でじっくり見られませんか?」と係の人に尋ねると、一生懸命探してくれて、画集だったかに載っている元の作品を見せてくれた。
また、「広島平和記念資料館平和データベース」に収録されているので、自宅からでもPCで検索して見ることができるとのことだった。
その時は絵にばかり見入ってしまい、そばに書かれた説明までは記憶に残らなかった。
帰って調べたところ、この絵は1945年9月、当時18歳だった中川清氏が広島駅で目撃した光景を描いたものだという。
タイトルは「燐光」。中川氏75歳の作品である。
以下の該当ページの見出し画像をクリックすると、PC画面いっぱいに拡大された絵を見ることができる。
こんな絵は、実際にその情景を見た人でなければ絶対に描けないだろう。
人魂と呼ばれることもある燐光だが、こんな風に真っ直ぐ立ち上るものとは知らなかった。しかも1つや2つではない。
光の下には何があるのだろう? もしや遺体? いや、この時は原爆投下から1か月以上経っている。広島駅近くなら遺体の収容はもう終わっていたはずだ。
それとも、ガレキの撤去が進まず、ガレキの下に亡くなった人が多数埋もれていたのだろうか。
中川氏による作品説明には、こうある。
九月十三日夕方七時頃広島駅に相当時間停車した時の事。
無風で雨が降って居りました。
正面の列車の中から見た呉方面も一面の廃虚でした。
薄明かりの駅前通りに路面電車が二輌、焼けただれたまま放置されて居り、数人の人物が歩いて居り、外には全く人気はなく、すぐそばの瓦礫からは無数の青白い燐光が歩いて居る人物より髙く眞直にすーと立ち上るとポーと消え又近くよりすーと立ち上る青白い燐光はまことに凄惨な光景であり、あたり一面の瓦礫の間より立ち上る様を見た事は今でも思い出すと慄然とする思いです。
当日のことを思い返してみると、広島に着くなり、何かこの世ならぬものを見せられた気がした。
その日1日、「燐光」の絵の余韻に浸っていたかったが、旅の日程上、そうもいかない。
原爆資料館の入館予約時刻が迫っていたからだ。