⭕日々の泡沫 [うつろう日乗]2
いくつかのことが、重なって、身動きがとれなくなった。文字通り、身が動かない。頭も動かない。
二つ目のショックは、自分これまで「夜想」で何をやってきたのか?というだ。最新の『山尾悠子』特集は、途中で編集長を抜けて、委員会のメンバーになって仕上げた。わりと自分の匂いのしない『夜想』ができあがった。自分としては久々の力のある雑誌で、悦にいっていた。珍しく再読を重ねていると、
「誰かが言ったのだ、世界は言葉でできている。」山尾悠子
という、山尾悠子の言葉に大分の書き手が反応している。金井美恵子も似たようなことを言っているので、山尾悠子の『飛ぶ孔雀』の金井美恵子の解説を読むと、「書く者たちは、当然のことながら書くよりもずっと多くのものを読んでいるので、読者である私たちは、何冊もの本、何人もの作者の言葉でできた世界の影を一冊の本の背後に見ることになる。」とある。
世界は言葉でできているのか…。一瞬にして納得してしまった。しかし、それは自分にとてつもない衝撃をもたらした。世界が言葉でできているとしたら、現実世界に幻想を体験しながらそれを雑誌に反映しようとしていた自分は、根本からズレているていることになる。自分には[幻想]というものは、質の良い現実の変形であるとなんとなく思っていた。寺山修司が、土方巽が、ヨーゼフ・ボイスはが、そして勅使川原三郎や笠井叡や田中泯が、目の前で見せてくれた[幻想]を、雑誌の中で言葉で伝えようと思っていたのだが、それは無理なんだということを、悟らされた。
どうりで、戸田ツトムや松岡正剛と編集について対談した時、まったく話がかみあわないわけだ。二人にとって編集は言葉使いであり、設計工学である。それは正当というか当たり前のことだった。誰にもならわず独学…というわりには学びもしていない…ただ無手勝流にやってきた『夜想』の行為自体が、相当に逸れたものだったということだ。
____世界は言葉でできている。
どうりで自分は、文章が下手で伝えられない分けだ。金井美恵子は、後書きで「幻想(それ)を眼に見える映像として実際に見たことがあるのかもしれないと、ヘルダーリンやネルヴァルのように思わせる詩人は存在するが、たいていの者たちはそうした狂気や幻想を「本」によって体験し、言葉の性格上、増殖する生命を生きることになるので、忘れかけていた記憶の水面下の柔らかな泥濘のような層から浮かび上がるものに読書の中で何度も出会うことになる。」とも言っている。
ネルヴァルなら幻想の『夜想』を組めるだろうが、自分は金井美恵子の言う、[たいていの者たち]にも到達していない文字関係者なのだから、根本どうしようもない。昔、『幻想文学』の東雅夫に言われたことがある、世の中で、最も本を読んでいない編集者だよね(笑)、と。あの頃、僕は平然と答えていた。「まさに、そうだね。」と、そこに少しの誇りすらあった。
自分の中にすっと入ってきた[世界は言葉でできている]は、少しの文章を書くにも逡巡し立ち止まってしまう手をもたらすことになった。不思議に幸せな体験ばかりをアートや演劇の現場で体験してきた自分は、それを他人に伝える術をもたないまま踠いたのだ。
落ち込まないではいられない。