見出し画像

【合理主義の錆】いつかその日を待ちわびて

誹謗中傷や、文化盗用など頭を抱える問題は後を絶たない。これらは意思疎通におけるズレが生じて引き起こるわけだが、このようなコミュニケーションエラーの解決策は無いのだろうか。

今回は、この点ついて個人的な見解を綴ってみたい。キーワードは「合理化」と「文脈」の2つだ。

まずこのテーマについて、大きく時代背景から遡って考えてみた。

合理主義の台頭

WW2以降、世界経済の発展スピードは指数関数的に早くなり、ここ数年だけでも所有物や生活環境が驚くほど便利で快適になった。人類が革新し続けた背景には「経済発展なくして未来なし。合理的に稼ぎまくろう。」という考え方があったとされる。いわゆる資本主義だ。そして、我々は「いかに最低限のエネルギーで活動し、効率良く日々を生きるか」に拘ってきた。

経済発展の初期〜中期にかけて、合理化に対する傾倒は戦争やビジネスの分野を飛び出し、生活習慣にもその影を伸ばしていった。「結論から話せ・要点は3つまで」などとビジネスでよく言われることを日常生活にも持ち出すようになり、人々は「時間のムダだ」「時間が勿体ない」などと合理性を第一に考えるようになった。そして、それらのニーズに答えるべく、様々な分野で革新的な発展が進んだのである。とりわけ通信分野における発展は群を抜いており、電話・パソコン・携帯電話そしてスマートフォンが発明された。革新が進むにつれて、人々は周囲との関わり方を合理化していったのである。

合理主義におけるコミュニケーション

画像1

確かに、コミュニケーションを合理化することで、多くの人と関わりを持つことができるようになった。その代表例はSNSである。SNSによる恩恵は数え切れない。成功のチャンスを獲得した人は、過去の何万倍もいるだろう。これはもとい、「合理化」に邁進してきた賜物であり、結果を最優先する合理主義が生み出した成功とも言える。

だがその一方で、相対的に「文脈」を軽視する傾向となったことは否めない。結果主義という言葉が浸透した一方で、過程主義が浸透していないことがその証である。結果の最大化を追うがあまりに、「文脈」への関心が薄まってしまったのだ。

「文脈」とはどういうことか。簡単にまとめると「5W1H」における、What以外の情報となる。Why, Who, Where, When, Howの情報はWhatを補強する背景、つまり「文脈」と言える。これらの情報が加わることで、Whatの情報に奥行きが生まれるのである。しかし、合理主義的なコミュニケーションは、「どこの誰の発言だろうと、その内容が正しければ受け入れられるべき」という考え方が基本となっている。つまりWhatを最重要視した考え方である。これは結果主義的でもあるし、ある意味平等でオープンな考え方と捉えることもできる。しかし、そのWhatが正しいかどうかの判断は一体「誰が・どの様に」行なってきたのだろうか?

「誰が」その正しさを判断してきたのだろうか?その答えはとても簡単で、"狭いコミュニティー"がその判断を行なってきたのである。人々は「これはこうあるべきだ」「これは間違っている・正しい」という判断を真理だと信じ、"広いコミュニティー"に飛び出して世界中の人々と接するようになった。

一方、「どの様に」の部分だが、これは"論理性"が基本となっている。これは合理主義と切り離すことができない要素であり、"科学"がその究極だと言える。そして、人々は「"論理的に正しい"="人の言動として正しい"」と考えるようになった。合理主義を傾倒するあまり、「論理的・合理的であること=(みんなにとって)正しい」という固定観念が形成されたとも言える。

法と宗教の関係:"正しさ"とは何か

画像2

本来世の中は、論理的に正しさを説明することができない事象で溢れている。その最たる例として「宗教」があげられることが多いが、これは"正しさ"の定義が異なった誤例である。

論理的な"正しさ"というのは、「矛盾がなく、普遍的で反復性のあること」を意味しているが、宗教における"正しさ"というのは"正義"を指し、「それを検証することは不可能で、信仰者以外には意味をなさない非論理的・非合理的な"正しさ"」なのである。つまり、「論理的・合理的=正しい」という考え方は、科学の世界での話であって、正義の世界では必ず成立するとは限らないのだ。

そもそも宗教が誕生した背景は何だったのだろうか。それは法の補完という目的があったとされる。勘違いをしている人が多いが、「法」は論理的に”正義”を解いたものではない。なぜなら、「法」は"違法" に対する罰を並べているだけだからである。「なぜその行いが罰せられるのか」については、"違法"であるから以外に何も語っていないのだ。「法」は正義ついて何一つ言及していないのである。これは"法の欠陥"であり、人間はその欠陥を補うために宗教を発明したのである。そして、絶対的な神に「その行いは罪であり、正義への裏切り行為である」と"正義"について語ってもらったのである。人々は「神様が言うなら正しい」と疑うことなく、その正義に納得したのだ。宗教は法の母とも言えるだろう。事実、イランなどのイスラム教国家はコーランそのものが法律になっている。

やがて人々は「法」を作っていく過程で、"違法=罪(正義の裏切り)"と勘違いする様になった。そして法を犯さないことは、社会生活において合理的な判断であり、”法の遵守=合理的=正しい(正義)”という論理を形成してしまったのだ。これが「法こそが正義だ」「違法じゃなければ何してもいいじゃん」と考える人が出てきた文脈である。

SNSが生まれた初期に「多様性(ダイバーシティ)」という言葉が盛んに使われるようになった。この言葉は、固定観念を捨てて価値観を再構築することを促す狙いで乱用されていたが、人々は「どこの誰の発言だろうが、その内容が論理的・合理的であれば"正しい"と判断されるべきだ」という考え方だけは変えようとしなかった。その理由はを論理的・合理的に導き出した結論は、全てにおいて"正しい"と信じきっていたからである。一方、「誰が、いつ、どこで、なぜ、どのように」という文脈に対する多様性については認める人が増えていった。その理由は残念ながらポジティブではなく、合理主義からくる「文脈軽視」によるものだった。人々はWhat以外に関心がなかったのだ。

そして、”論理的・合理的な正しさ(=科学・法・富)"を追求する様になり、"非論理的・非合理的な正しさ(=宗教・道徳・仁義)"を相対的に軽視する流れとなったのだ。この流れにおいて、一番問題なのは、"非論理的・非合理的な正しさ"を尊重する方法を誰も模索しなかったことにある。これはまさに、合理主義を貫いたことで生じた問題であり、この記事の表題で書いている、"合理主義の錆"である。そして、これが誹謗中傷の元凶であり、戦争が終わらない理由の一つでもある。

コミュニケーションエラーの解決策

画像3

では本当の意味でのダイバーシティとは何なのか。

今の私の答えは、「異なる正しさを尊重すること」となる。何が正しいかではなく、何をもって相手がそれを正しいと判断したか、その背景を理解することがダイバーシティの本質だと考えている。また、"尊重する"というのは、「論理的・合理的であること」=「その考えは正しい」、「非論理的・非合理的であること」=「その考えは正しくない」と決めつけないことだと認識している

とてもじゃないが、140文字のツイートで発言者の「文脈」を掴むことはできやしない。SNSでのコミュニケーションエラーはここから生じており、合理主義による「文脈軽視」が歪みを広げている。これは文化盗用問題にも派生する話だ。世の中には「え!?」と思わされる意見もある。ただ、その意見が生まれた「文脈」を掴む努力をしないと、本質を理解することができない。

最後に、誹謗中傷を行う人々の「文脈」を考えてみよう。今まで綴ってきたことの総括にもなるが、やはり背景にあるのは「論理的・合理的であること=(みんなにとって)正しいと決めつけ、文脈を理解しようとしないこと」である。そしてそのような思考に陥る本質的な理由は、合理主義・結果主義の傾倒により生じた「文脈軽視」があると私は思う。

「論理的・合理的か」と「(相手にとって)正しいか」は分けて考えなければならない。それを理解しなければ、インターネットでの誹謗中傷がなくなることはないし、戦争もなくならないだろう。2020年になり、ソーシャルディスタンスやBLMと言った「分断」が進む中、世の中は未だに合理主義的で「不要不急の」という言葉をわざわざ付け加えて外出自粛を促している。「ムダ・ムラ」を排除するここ数十年の動きが本当に恐ろしくてならない。

ムダは素晴らしい

画像4

ムダを繰り返すと癖になり、癖を続けると習慣になり、習慣が他人に広がると風習になり、風習に流派ができると文化になる。人間を人間たらしめる本質的な要素はムダの中に存在すると私は思う。

コロナ禍でも、不要不急こそが経済を回す鍵であると明らかになったが、今後人類はより一層、合理主義に突っ走り、さらなる"分断の壁"を作るのだろうか。あるいは「文脈」を見直し、お互いをわかり合うおうと努力するのだろうか。このままでは前者になる気がしてならない。

現在、我々は何事においても単純化し、極端に振切る傾向にある。その極端な思考にブレーキをかけて、ムダ・ムラを楽しむくらいの余裕がある時代が来ることを、私は心から願っている。

スチャダラパー『ヒマの過ごし方』

※写真は全て自分で撮影したものです。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?