【研究者の推し本】 『野生生物は「やさしさ」だけで守れるか?』 貝類学者・福田宏
「かわいそう」考 ー『野生生物は「やさしさ」だけで守れるか?』を読むー
「かわいそう」は「擬人化」である
本書は「かわいそう」という感情への言及を問題提起とする形で始まり、その問い掛けは掉尾5章の「命に向き合う責任」に至るまで一貫しています。ならば、「かわいそう」はいかに人の心に発現して行動を方向付け、生きものを含む他者や外界へ影響を及ぼすのでしょうか。
直近に私がその感情を抱いたのは、数日前の夜半に暗い車道を徒歩で横断中、センターライン附近をよちよち這う蝉の幼虫に気付いた時でした。何年もの年月を地中で費やしたのち羽化すべく地上に現れたその日に、車輌か歩行者に無惨に踏み潰される痛ましさを咄嗟に想像し、まさに「かわいそう」と感じたので掌に載せて近くの植え込みまで運び、樹幹に止まらせて自力で這い上るところまで見届けました(翌日その木には脱け殻が一つありましたが、同じ個体かどうかはわかりません)。
それ以前に「かわいそう」と感じたより印象深い経験を回顧するなら、小学2年生の時に国語の教科書(光村図書出版)に掲載されていた童話『われた茶わん』(平塚武二作)を直ちに思い出します。喇叭(らっぱ)を吹く犬と踊る猫とが描かれたお茶碗を誰かが二つに割ってしまってゴミ捨て場に廃棄し、破片それぞれへ離れ離れになった絵柄の犬と猫が、もう元の状態に戻れないことを嘆き悲しんで涙を流すというお話です。
授業でこれを読まされた私は烈しい衝撃を受け、以後しばらくは恐怖と絶望で連日泣いていました。これが私の「かわいそう」体験の最古の鮮明な記憶で、のみならず今でも胸を衝く悲劇として忘れられず、思い出すたび密かに小さな慟哭を強いられます。
当時両親は呆れて「茶碗は生きものでもないし、所詮はいくらでも交換可能な道具ではないか」と諫めたものですが、私はその理窟に納得するどころか両親の冷酷さに憤激し、この時彼らとの間に感じた溝は遂に埋まらないままでした。この記憶から私が実感するのは、「かわいそう」という感情の対象は生きものとは決して限らないし、「生命」も必須ではなさそうだということです。
他方、生きものを対象とした「かわいそう」の一語がはっきり現れている作品に、志賀直哉『城の崎にて』があります。語り手(私小説なので志賀自身と解釈可能)は電車に撥ねられて重傷を負い、予後の療養のため城崎温泉に逗留する日々のうちに、森の小径の散策中に戯れに投げた石が「蠑螈」(イモリ)を直撃して殺めてしまい、その死を自らの境遇と重ねて悼む際に「かわいそう」の5文字が召喚されます。
哲学者・柄谷行人は、この場面の志賀によるイモリへの感慨を「専制的」と批判しています。志賀の負傷とイモリの死との間には本来何の関係もありませんし、自ら殺しておいて一方的に感傷に浸るのはいい気なもので、むしろイモリを自我の確認と維持のための小道具として利用しているという見方でしょう。この指摘には私も納得しますが、ただ、専制的・一方的な感情移入から完全に自由な「かわいそう」は、果たしてありうるのでしょうか?
志賀の「かわいそう」は、死んだイモリを自らに擬した上で発揮されています。つまりこれは擬人的な発想です。また、私が今も忘れられない割れた茶碗に対する感情も、人の言葉を話して思いを吐露する犬と猫の絵柄に対するものであり、やはり擬人化に支えられた「かわいそう」なのでした。
これらを踏まえると、「かわいそう」は擬人化の手続きを伴って成立するものであり、さらにいえば大方の「生命」(純粋に近代生物学的な文脈を除き)も擬人化を敷衍(ふえん)した先に現れるもので、決して自明の存在などではなく、人の心が仮構したものではないでしょうか。
擬人化はいうまでもなくフィクションのひとつで、日常生活のあらゆる局面で普遍的に活用されています。小説や漫画でも、紙媒体ならインクの染み、デジタル配信なら電気信号に過ぎない無機的なものに「生命」や「人格」を見出し、それらに感情移入することで多くの虚構が築かれて共有・消費されます。「かわいそう」がその一部であるなら、この観点で生きものや生命を守ろうとするのももっぱら人の都合です。
その一方で、逆に「自然破壊や生きものの殺傷は人間のエゴ」との半ば紋切型化したフレーズを今も時折目にします。しかしそれをいうなら、「かわいそうだから守る」も同様に「人間のエゴ」であると捉えなければ公平ではありません。冒頭で触れた蝉の幼虫も、「何年も地中で待ったのに」は私の勝手な思い入れであって蝉自身が意識しているのではありませんし、車に轢かれると他ならぬ私が気分を害するので救けたまでです。
物言わぬ生物と、自己投影する人間
そもそも、生物と無生物の明確な区別は可能なのでしょうか。人の体ですら蛋白質の塊であり、電気信号や浸透圧など物理・化学的反応で作動する一個の機械という見方もできます。ならば「かわいそう」という感情を誘発する要因は生命の有無というよりは、直前まで維持されてきた存在の継続性がその後も続くか断ち切られるか、がより大きく関わっているかもしれません。私が惜しむ上記の「茶わん」は割れて捨てられ、過去の状態に復帰できない不可逆性にこそ悲劇の核があります。
私は貝類の生きた個体を採集してきて標本とするために殺す場合も、肉抜きが完璧に成功し、殻と軟体部の全てをきちんと永久保存できるならさほどの罪悪感は湧きません(逆に、処置を失敗するとあらゆることを抛擲(ほうてき)したくなるほど落胆することもあります)。むしろ、生物は標本となることで新たな「生命」を永遠に付与されて不死となり、万一「死」があるとすれば価値を理解しない人に破棄されてしまう場合だけだとすら思います。
これは本書3章で経緯が詳述されている鯨の標本化の話に通じ、さらに言えば、死んだ個体のことを永く記録と記憶にとどめて研究や教育などさまざまな用途に有効活用できるという点で、標本化は既にこの世を去った存在へ思いを馳せつつ冥福を祈る「供養」の前向きな在り方でもあるでしょう。もちろんこれもまた、物言わぬ生きものを前にしてなされる、人の精神活動に依存することです。
そうだとすると、本書でいくつも取り上げられている「かわいそう」を巡るさまざまな矛盾や葛藤、軋轢やトラブルの大半は、人が作り出してしまった末に自らを苦しめているものに見えてきます。2章のアカミミガメやナガエツルノゲイトウほか外来種の問題も、人がやらかしてしまった失敗の典型に他なりません。
野生の生きものは、人とは独立に、こちらの都合などお構いなく存在しています。それらはつねに人の意識や社会の外部にあるので、私たちが何らかの形でそれらを我が身に引き寄せて解釈を与えるとしても、それは一方的な投影に過ぎません。4章の奄美大島宇検村のハイビスカスは、世界自然遺産指定に向けて設定された保護区とその外との境界で線引きし、内側は伐採するよう環境省に命じられて伐ったが外は残されたとあり、これも人為的な線引きが結果の明瞭な落差をもたらした分かりやすい例です。
そして5章に登場する、マングースを泣きながら手にかけて駆除する研究者の姿は、イモリを自ら殺してその「罪」におののく志賀直哉に重なります。もちろん徒らに投石した志賀と、覚悟の上で駆除に踏み切る研究者とではそこに至る背景も動機も甚だしく異なりますが、共通するのは自己嫌悪です。喩えるなら、鏡に映った自らの姿の想像以上の醜さに愕然とさせられたり、録音された声を聞かされておぞましさに身悶えする状態に似て、これは私たちそれぞれが大なり小なり経験するはずの、自己認識の問題です。
したがって、「かわいそう」を排除せずに生きものや生命を守ろうとするなら、それは何よりも人が人のために成し、その行為の結果は他ならぬ私たち自身へ還ってくるものとして自覚される必要があるはずです。「情けは人のためならず」といいますが、それと同様に「保全は自然のためならず」という観点を忘れてはならないでしょう。
環境保全が抱えるジレンマ
その上さらに事態を複雑化しているのは、個々の状況ごとに人同士で利害が対立してしまうという現実です。熊の出没と被害に怯えて駆除を訴える人とそれを守りたい人がそれぞれいるように、ある場所の環境を改変・開発したい人と維持したい人とが衝突し、人の生活や経済と環境保全のどちらを優先するかという対立に陥る例はごくありふれており、枚挙に遑がないばかりか、その多くが長きにわたる禍根を残しています。久米島のウミガメの問題(1章)などもこの変奏として位置付けることが可能です。
このような場合、異なる主張の間の「バランス」をまず担保しようと試みるのは自然な反応ですが、そう口にするだけで問題が簡単に解決するわけでもありません。むしろ、「バランスを取れ」との声自体が凡庸で空疎なお題目と化す場合も多く、そう唱えておけば何事かを言った気になって、即席のおめでたいカタルシスをもたらしてしまうなら逆効果なばかりか、醜悪というほかありません。
やや横道に逸れますが、例えば原発・産廃処分場・軍事基地などいわゆる「迷惑施設」が建設される場合、当該自治体には国が補助金を支給するべく法で定められています。ならばそれと同様に、貴重な稀少生物を擁する群集が存在する場所に住む人々にも、当該地の恒久的な環境保全(それは立ち退きなど生活上の制限や不便を強いるかもしれません)への見返りとしての補助金支給や何らかの補償が検討されるなどして初めて、「バランス」が実現するのではないのかと私は思いますが、残念ながら現時点での法や公金の使途はそのようにはなっていません。
一つには、開発と生物の保全は対極にあるものと多くの人が決め付け、思い込んでいるからでしょう。実際は両者とも、人が軽々に制禦できず慎重に対処せねばならないものという点で共通しているはずです。この意味では人は、自らが推進する経済・開発行為に対しても、あるいは他者たる自然環境に対しても、相対化の試みとその必要性の自覚や、議論の深まりがまだまだ不十分なのだろうと私は思います。
こうした問題の解決は、科学的データに依拠するだけでも、あるいは経済的観点を重視するだけでも難しく、人の認識・心理・情念と、それを踏まえた選択と行動に関わる綜合的な判断にかかっているため、むしろ文学的な課題でしょう。人が自ら生み出して抱え、肥大させ続ける矛盾に何らかの形で折り合いをつけるべく、その都度個別の、したがって多くの場合前例もないであろう解決策を模索し続けねばならないようです。もちろんそれは困難極まることですが。
私がかすかに光明めいたものを感じるのは、これも柄谷行人が書いていたことですが、土木工事の専門家は先端的テクノロジーを常時導入駆使して作業に臨むとともに、地鎮祭では神仏に「無事に竣工に至りますように」と瞑目して祈り、両者の間に何の矛盾も感じていないという点です。これこそは融通無碍な綜合とでもいうべきで、卑小な思い込みや先入観を軽々と飛び越えて何でも善きところは取り入れ、前進しようとする活力と頼もしさに満ちています。もし生きものとの対峙に「かわいそう」という感情が介在するなら、この祈りのごとく機能するよう意識することが、何らかの可能性を拓くのかもしれません。
今後も人は自然や生きものへ干渉し続けざるをえませんし、従前から未解決の問題に片が付かないまま、未知の新たな試練に見舞われるのは避けられません。ただ、経験と記憶は良くも悪くも蓄積されてゆきます。だから互いに矛盾する志向の間のジレンマによる悪循環に陥るよりかは、逆にそれらを肯定的に結び付け、時に逆説的でアクロバティックな様相を呈することも恐れずに、旧弊や陋習(ろうしゅう)に囚われない個別の対処をその都度試みるのが望ましいであろうことを、今回の本の多岐にわたる事例がそれぞれに示唆していると私は読みました。
「生命」に関係する逆説として、私の高校の先輩が詠んだ短歌を最後に挙げておきます。
《人みなを殺してみたき我が心その心我に神を示せり 中原中也》
文=福田 宏