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【第41回】未成年者③ 限定的なパターナリスティックな制約 #山花郁夫のいまさら聞けない憲法の話
問題の所在
未成年者については、(1)憲法上の人権とまでいえない自由の制限について、(2)憲法上の人権であるけれども、法律でその範囲が定められる能動的な権利(参政権)について、検討してきました。それでは、いわゆる自由権の制限の場合にどのように考えるべきでしょうか。
表現の自由の場合には、これまで歴史的にさまざまなケースが争われていますので、判例や、学説などでも違憲判断の方法については準則化されているものがありましたが、未成年者の人権制限については、必ずしも昔から疑問が提起されてきた問題ではないことから、○○の法理であるとか、□□の基準のような形で準則化されているわけではありません。
子どもの権利条約
しかし、なぜ憲法上の人権を法律で制限できるのか、という問題について、論理的に考えた場合、パターナリスティックな制約も限定的であるべきです。
1994年に日本も批准している「児童の権利に関する条約」(いわゆる「子どもの権利条約」)では、青少年の一般的未熟性を前提としないで、むしろ子どもの自己決定能力の可能性を前提としたうえでそれを育成し増進させる方向、つまり伝統的なパターナリズムを否定する方向こそがとられるべきである、と考えられるようになっているからです。
そうだとすると、未成年者の人権を制約することができる場合については、成熟した判断能力が欠けると類型的に判断され、その結果、長期的にみて未成年者自身の人格の自律的発展にとってそれを毀損させてしまうような場合に限られるべきと考えられます。
そのうえで、どのような制約が認められるかについては、年齢面での発達段階や、より制限的でない規制手段があるかどうか、また、年齢によって画一的に判断すべき場合か個別的に判断すべき場合かなどを検討したうえで判断すべきでしょう。
ブラック校則
1980年代、管理教育が問題となったことがあります。それ以前には、盗んだバイクで走り回って学校のガラスを割って、などと「荒れる学校」が社会問題化していたので、それに対する大人たちの逆襲だったのかもしれません。男子学生には丸刈りを強制する学校や、女子学生にはスカートの長さやヘアースタイルの規制、さらにはソックタッチも禁止する学校まで現れました。何周かまわって、最近ではブラック校則が話題となっています。
ヘアースタイルの自由や、ソックタッチをする自由などは必ずしも人権とまでは言えない自由でしょうけれども、それに対する規制は、規制目的とそれを達成する手段との間には合理的関連性が必要だと思われますし、比例原則に合致するものでなければならないはずです。ただし、学校が私立の場合には、私人間効力など、別の論点も関連してきます。
青少年保護育成条例
校則問題とは別に、明らかに表現の自由との関係で問題があるとされるのがほとんどの都道府県に存在する、青少年保護育成条例です。その内容は条例ですから、自治体によってそれぞれですが、有害図書指定が問題とされて最高裁まで争われた岐阜県の条例があります。この条例は、「著しく性的感情を刺激し、又は著しく残忍性を助長するため、青少年の健全な育成を阻害するおそれがある」と認めるとき知事は当該図書を「有害図書」と指定するものとし、青少年への販売・頒布などが禁止され、自動販売機への収納も禁止されるというものです。
この条例については、検閲にあたるのではないか、当たらないとしても事前抑制の原則的禁止の法理に反するのではないか、構成要件が明確性の原則に反するのではないか、成人の送り手及び受け手の表現の自由を侵害するものではないかなどなど、多くの問題をはらんでいますが、ここでは、受け手としての未成年者の表現の自由がなぜ制限できるのか、という点について検討してみたいと思います。