映画感想文 「ノクターナル・アニマルズ」をみて
映画「ノクターナル・アニマルズ」を見たので感想を書きたい。概要をwikiから引用する。
スーザンはアートギャラリーのオーナー。夫とともに経済的には恵まれながらも心は満たされない生活を送っていた。ある週末、20年前に離婚した元夫のエドワードから、彼が書いた小説「夜の獣たち(ノクターナル・アニマルズ)」が送られてくる。彼女に捧げられたその小説は暴力的で衝撃的な内容だった。精神的弱さを軽蔑していたはずの元夫の送ってきた小説の中に、それまで触れたことのない非凡な才能を読み取り、再会を望むようになるスーザン。彼はなぜ小説を送ってきたのか。それはまだ残る愛なのか、それとも復讐なのか――.
概要としては以上です。
原作のある映画で、原作が小説だ。ミステリー映画に分類される。主人公であるスーザンが送られてきた原稿をベットで読書用のメガネをかけて読んでいる姿が何度も登場する。書かれた小説を主人公が読んでいくという物語だ。読むという行為を主題にしていると言ってもいいだろう。
スーザンはアートギャラリーを経営し成功しているにも関わらず、スーザンは不眠症に悩まされ、昼間も意識が朦朧としている。20年前に芸術で作品を作ることを断念した。自分には才能がないからと思ったからだ。元夫のエドワードはそんなことはないから作れといった。それを聞かなかった。現在は後悔しているのかもしれない。その姿は無様といえば言える。
若い頃の情熱が消え、全てが無価値に思え、道に迷ったときに、はたから見ればみっともない姿に見えるかもしれない。人間とは壊れるものなのだ。スーザンは40歳くらいで中年の危機と呼ばれるものだ。かつては思春期に自己と社会との間の葛藤の中で自己を作り上げて、それ以降は安定していると考えられた。今では寿命が伸び、社会も流動的になったために安定した自己というものをずっと持ち続けるという人間像は想定しづらくなった。会社の中でも新たなテクノロジーや知識を求められ、バージョンアップしないことは悪と責め立てられる。
今ではいつでも自己は不安定であり、社会との間をさまよっていく。スーザンも夫は浮気をしていて、ギャラリーの経営もどうでもよくなっている。ギャラリーで展示される芸術と呼ばれるものにも飽き飽きしていて、心をを動かされることはない。
そんなときに元夫のエドワードから原稿が送られてくる。暴力に満ちた復讐の物語。復讐の話というのは好まれるようで、多くの創作物で描かれている。キワモノ的なものもある。シェイクスピアもタイタス・アンドロニカスという暴力的な復讐端を書いていて、普遍的なものなのかなと感じる。
映画のストーリーとしては、送られてきた小説を映像で表現されたパートと、小説を読んでいるスーザンの日々と追憶が描かれる形になっている。小説の方は家族を暴行され殺されたトニーが復讐するという大まかな話だ。
かつてスーザンはエドワードに対して理解者であることができなかった。エドワードの書く小説に自分のことばかり書いていると言って責めた。作家にとって自分の書いた作品は子供のようなものでけなされるのは、銃で撃たれるようなもので暴力だ。もちろん作品は批評はされるものであり、受け入れていくしかないのだけれど。スーザンに復讐の話を送ってきたのはかつてのことがもちろんあったからだろう。スーザンもそれはわかり読み進めていく。
だから作品は身代わりであり。身代わりの関係から世界を構築する。読みながらもう一度エドワードと結婚していた時を生き直す。今の瀕死の状態から治癒するためだ。治癒するとはどういうことか、それは創造性を持ったときに治癒する。未来を創造し、自己を創造する。そのときに再生する。
文とは文字どうり線だ。読むとは線を引くことだ。文とは切断と接続である。線を引くということであり、あるものとあるものを結びつけることをいう。否定もまた文は作ることができる。切断と接続と否定とを繰り返し線を引くことで、もう一度生き直す。始まりの瞬間に帰り、暴力を超え、贖罪を超え、時間を巻き戻す。
最後の場面でスーザンはエドワードに会うために、レストランで待ち合わせをする。でもエドワードはあらわれない。待ちぼうけを食らってしまう。私はこの姿が未来のための持続であり、再生した姿だと思った。
サスペンス映画としてみても面白いと思う。展開が気になり飽きずに見れる。見てみてほしい。