映画「クライ・マッチョ」をみて 強さは解決になるだろうか
ネットフリックスで配信をしていたので「クライ・マッチョ」を見ました。感想を書きたいと思います。
「クライ・マッチョ」は91歳になるクリントイーストウッドが作った映画です。クリントイーストウッドといえばダーティハリーとかで強い男というイメージがあります。マッチョをどう考えるかが問題になりそうです。
舞台は1980年のメキシコです。主人公のマイクは恩のあるテキサスに住む牧場主から、息子をアメリカに連れてきてほしいという依頼が来ることから始まります。かつてはロデオスターであったマイクも今ではすっかり落ちぶれています。牧場主の息子とマイクの交流の話といえます。
1979年は「機動戦士ガンダム」の放映が始まった年です。主人公のアムロ・レイは16歳の設定です。そのまま年を取っていれば今は59歳ということになります。定年まじかの老年に差し掛かった男になっているはずです。
「機動戦士ガンダム」は、話の初めのほうでは、機械いじりの好きな少年アムロがモビルスーツを得て成長していくという話です。それは男が強くなっていく過程とも言えます。ロデオスターのマイクとエースパイロットのアムロ、この二人は私の中で重なるような気がします。
いまでも、ロボットアニメの中では相変わらず少年や少女が戦い続けています。それは強さの戦いであるようにも感じられます。マッチョという言葉は日本語ではあまり使われません。日本の日常的に使われる言葉に置き換えれば、それは強さであるように思われます。
こんなことを想像してしたくなります。老年に差し掛かったアムロは、すでにニュータイプとしての能力を失い、かつての仲間とも連絡も取っていないような状態です。軍人でもなく暮らしています。もしかしたらマイクと同じような感じを持つのではないでしょうか。
マッチョを持ち上げる少年の話を聞きながら、マイクは言います。マッチョは持ち上げられすぎてる。日本の文脈で日本語で言えば強さは持ち上げられすぎている。
では強さではないとすれば何なのか。弱さを認めることだと考えられもします。あるいはレジリエンスだともいえるような気もします。レジリエンスとはしなやかさという意味です。強い風を受け止めるのではなく受け流す感じです。どちらも違うような気もします。
マイクと少年が対話するシーンで、少年が母親がいかにひどいかを語るシーンがあります。ひとしきり少年が語った後マイクは何も言いません。ほんとは少年は母親のことを考えずにいられないという現れでもあるでしょう。しかし、私自身そのシーンでは何かを思うというより、あっけにとられてしまいました。少年には少年の言い分はあるんだろうけれど、どう考えればいいのかよくわからないのです。
母親には母親の人生があるだろう、しかし母親には責任というものがあるだろうとは思います。でもよくわからないのです。重大なことだと思う反面、すべてが過ぎ去ったことに思えてしまうのかもしれません。結局、人はやりたいようにやるだろうという感じがするのかもしれません。
映画はマイクがメキシコで知り合った女性とダンスを踊るシーンで終わります。見とれてしまいます。人と人が共にあることを体現している感じがします。一人でもダンスは踊れます。でも二人で踊るのも悪くない。そう思わせます。