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2023年6月(書評筆者:星 沙良) 『あちらにいる鬼』 井上荒野著

「愛した 書いた 祈った  寂聴」
 二〇二一年十一月に九十九歳で亡くなった作家、瀬戸内寂聴の墓石にはそう刻まれている。彼女の遺骨は、本人が切望していた通り、京都の寂庵と、出身地の徳島、そして長年住職を務めた岩手の天台寺の三ヶ所に分骨されたと聞く。天台寺の墓石に刻まれたこの言葉は、彼女自身が病床で考えたものだという。
 『あちらにいる鬼』は、瀬戸内寂聴と、彼女の不倫相手であった作家、井上光晴と、その妻の三角関係を、光晴氏の娘である井上荒野氏が、事実をもとに綴った物語である。
 井上光晴を模した作家、白木篤郎は、笙子という美しい妻や、子がありながら、浮気を重ねていた。しかし笙子は見て見ぬふりをし、決して文句を言わず、彼を責めることもなく、ただひたすら妻として、篤郎に尽くし続けていた。彼に頼まれれば、自殺未遂をして入院している不倫相手のもとに、夫の代わりに金を持って謝りにも行く。かつて小説を書いていた笙子は、頼まれれば、篤郎の名前で短編小説を書くことすらあった。
 瀬戸内寂聴がモデルとなっている作家の長内みはるは、夫と娘を捨て、駆け落ちした男とともに暮らしていたのだが、篤郎と恋に落ち、その男とは別れる。みはるは篤郎を愛し、関係を深めるが、彼からどんなに笙子の自慢話を聞かされても、あるいは、他の女と寝ていることをほのめかされても、みはるもまた、そんな彼を許して関係を続けていく。
 白木篤郎という作家は、なぜそんなにも女性たちから愛され、許されて、浮気を繰り返すのか。なぜ笙子はそんな夫の不倫を黙って許すのか。なぜ、みはるはそれほどまでに篤郎に溺れて、出家という道を選ぶのか――。
 その理由は、それぞれの視点で語られた物語の中で徐々に明らかになっていくが、最後まで解き明かされない謎もある。確かなのは、彼らのなかに、世の中の道徳や常識といった枠から外れた、彼らにしか持ちえない強力で純粋な魂が、間違いなく存在していたということだ。
 自分の両親と、父親の愛人をモデルに小説を書くということは、決して容易なことではなかったと思うのだが、作者は最後まで見事に小説家としての視点を貫いて、いびつながらも美しくさえ見える三角関係の物語を冷静に書ききっている。その真の小説家としての潔いプロフェッショナリズムには、終始圧倒される。渦中にある三人も皆、物書きとしての鋭い視点を持っていて、それぞれの客観的な目線で語られる見解は、この小説の大きな魅力になっている。モデルとなった登場人物をよく知る作者だからこそ、ここまで深く掘り下げて書くことができたのだろう。
 そんな三角関係は、当事者らの他界によって終わったかのように思われたが、違っていた。物語の終盤で語られる事実を知れば、三角関係などという小さな枠を超越した彼らのつながりが、いかに強固なものであったかがわかる。三人は、愛に一切の妥協を許さず、真っ直ぐに思いを貫いた者にしか見えない景色を、あの世で堪能しているのかもしれない。
 寂聴氏の天台寺での納骨式は、ごく一部のご遺族のみで執り行われたそうであるが、彼女はあの世でもなお、愛して、書いて、祈り続けているに違いない。光晴氏と彼の妻もまた、自らの信念を貫き通しているのではないかと思う。この物語には、永遠に、結末など存在しないのかもしれない。

発表想定媒体:女性誌

星 沙良さんのコメント

 初めての書評でしたが、豊崎社長にご講評いただいた内容をもとに、一部書き直しました。「指示語が多すぎる」など、的確なご指摘をいただいたおかげで、文章を書くたびに気を付けるようになり、感謝しております。受講生の皆さんからの感想も、たいへん励みになりました。
 書評教室では、「同じ本でも、こんなにさまざまな捉え方があるのか!」と驚くことが多く、毎回新しい発見があります。他の受講生のみなさんの作品にもインスパイアされて、小説を読むこと、書評を書くこと、そして、小説を書くことへのモチベーションも高まります。これからも新しい発見を楽しみながら、書評の勉強をしていきたいと思います。



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