子どもを無視することから、国語教育に思いを致す
無視はあかんよなー…
次女を無視する。
字にして書くだけでも冷徹。
次女は夕方から寝るまでの時間に興奮してくる。
帰宅後15時前後は眠くてぼんやり。
おやつ食べてテレビ観て動画観て昼寝して。
17時すぎから活動開始。
よく喋る。
次女がその日の出来事を喋り続ける。
それに対して両親は我がの気分次第で聴いたり片手間に聞いたり流したり。
そして極めつけは無視。
次女は長く喋る。
僕が何していようが長く喋る。
そして、僕自身が気分がいい時はだいぶ前のめりに意図をくみ取って理解に努めるけど、
僕の気分が乗ってない時は次女が何を言ってるのか全く解らないことがある。
長く喋った挙句、何を言っていたのか解らないんだよ。
そんなことあるか?
日本語をちゃんと喋ってる。
一語一語は解る。
でも文のかたまりになったときに解らない。
まだ構成が不十分だからだ。
小学生に構成を求めるのは酷だ。
でも夕方以降、大人として気分が乗ってない時に子どもの構成のないかたまりを聴き続ける社会的素養が僕にはどうも備わってなかった。
そして僕の気分が乗ってない時は次女を無視する。
具体的には書き残したnoteの下書きの仕上げをスマホ画面でし続けるというもの。
noteにかこつけて次女を無視した。
無視はあかんなー…
このままではあかん。
次女の人格を潰してしまうことになる。
どうしたらいいかな。
自分のこれまでの子への関わりは、
自慢にはなるが、
無意識にやっていたことが後付けで良かったと知ったりして、
自身の行動が強化されることがあった。
でも100%モンテッソーリにコミットできているわけではない。
それこそ自分の気分次第でやっているに過ぎない。
モンテッソーリ"風"教育はしている。
親として改善すべき点は関わり方にある。
一方、子どもたちに身に付けてほしいのは、
やっぱ国語の力かなと思う。
構成力。
喋るの下手な僕が言っている。
とにかく、
子どもたちには、自分が話したいことを話し続けるだけじゃなく、どう話したら伝わるかなを考える大人になってもらうべく、
あと10年ぐらいかけて伝え続ける。
島田紳助さん言ってたこと
「その場に映像が浮かぶように話す」
紳助さんの動画見せようか。
すぐに反発されるのがオチだが。
んー…
本読め。
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