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演劇を観に行くときに「今回は大丈夫か?」と心配になる話

私は福井県で演劇をつくっている。演劇を観に行くこともある。多くは県内公演で、観劇のために県外に出かけることも時々、年1~2回くらいある。

県内公演の場合。事前に公演チラシやSNSを見て「面白そう!」と思って観に行くこともあれば、正直なところお付き合い半分で行くこともある。お付き合いというのは、例えば自分の公演の時に観に来てくれたり、手伝ってくれたりした方が関わっているとか、その他もろもろだ。

どちらにしても、せっかく観に行くのだから気持ちよく観劇して帰りたい。でも公演チケットを予約するときに、もしくは会場に向かう道中でも、ふと心配になることがある。今回は大丈夫か?

というのも、観劇には当たりはずれがある。というとめちゃくちゃ嫌な感じに聞こえてしまうけれど作品の良し悪しのことを言いたいわけではないので演劇関係の方怒らないでください。もちろん面白かったとかつまらなかったとか感想を抱くことはあるけれど、それだけで当たりとかハズレとか判断しているわけではないし、むしろ作品をつくるってすごいことだと思うので、それはもうシンプルに尊敬しています。

私が言う当たりはずれは作品そのものではなく、観劇という行為そのもののことだ。例えばとある公演を観に行った私の心境を再現してみるとこんなかんじ。

――――

会場の駐車場に到着して、施設の中に入る。入口の体温計で体温を測り、同時に手指の消毒をする。手をかざすと自動的に液が出てくるやつ。思ってたより液量が多くて服の袖がちょっと濡れちゃう。けどまあ気にしない。

手をこねこねしながら周囲をざっと眺めてみる。会場は上のフロアらしいから上に行かないと。階段か、あ、エレベーターある。でも知り合いと一緒になったらちょっと気まずいな。エレベーターで一緒になるってことはそのまま受付も一緒だし、そうなると隣に座る流れになりそうだしなー。演劇は仲良しな人と観るか、一人でゆっくり観たい。階段で行こう。

階段を上がって人の気配がする方へ向かう。知らないお姉さんが「チケットをお持ちの方はこちらへどうぞ」と言って誘導してくれて、その先にはまた知らないおじさんが待っている。チケットをもぎってもらって小さい声でお礼を言ってから公演会場に入る。

中はいかにも劇場という感じ。すでにお客さんが入っていて、一人の人もいれば二人・三人のグループもいる。できるだけ人が少ないエリア(でもステージもそこそこ見えるところ)を探して座る。

時計を見る。開演まで15分くらいある。ここからまだまだ人が増えるだろうから、隣の席も人がくると思っておこう。でも誰も来なかったら気楽でいいな。

開演5分前。まだ隣の席は空いている。ラッキー。アナウンスが入る。携帯の電源の話とか、アンケートにご協力くださいとか。公演パンフレットをめくる手を止めて携帯の電源を切る。アンケートは年齢とか居住地のところだけ〇をつけておいて、感想は終演後に書くことにしよう。二つ隣におじさんが座った。まあ1席空いているから良し。

会場に流れていた音楽が小さくなってきて、照明も落ちてきた。いよいよ始まるらしい。携帯の電源切ったっけ。一応見てみる。大丈夫。

幕が上がる。ちょっと肌寒い気がする。上着をひざ掛けがわりにかけておこう。さあ、面白いといいな。あの役者さんいつ出るんだろう。

と、会場の後ろの方で人の動く気配がする。横の通路を申し訳なさそうに通る人たち。いろんな事情でギリギリに着いちゃうことあるよねえ。忙しい中かけつけたのかもしれないし、分かる分かる。

みんな席についた様子。舞台では重要っぽい役者さんたちのやり取りが盛り上がってきた。あー、この感じのストーリーは私ちょっと苦手かもなあ。でも舞台装置はなんか凝ってるしすごいなあ。

「ふう~」

二つ隣に座っているおじさんのため息が聞こえる。あら、おじさんも苦手だった?いやため息ってほどでもないか。深呼吸しただけかも。まあいいや。おじさんはいいんだ。私は舞台を観に来たんだから。お、あの役者さんスタイルいいなあ。声もよく通るし、なんかナチュラルな演技。好きかも。

「はあ~」
「ごほっ」
「ふう~」

あ、これあれだな。このおじさん、音出しちゃうタイプの人だな。やっちまったな。もうちょっとあっちの席にしたらよかった。っていうかおじさんが後から入ってきたんだけど。あ、そろそろ音出そうな気がする。

「…うーん」
あー声出ちゃった。これちょっとなんか言った方がいいかな。でも本人は無意識かもしれないし。いや無意識だとしてもやめてもらえるとありがたいんだけど、こういうのって止めようと思って止めれるもんでもないのかな。まあ、気にしない気にしない。舞台に集中しなきゃ。集中集中…

結局、公演半ばでおじさんは眠り始めてしまった。寝ている人の呼吸って深くなるよね。すーーーー。はーーーー。って深い呼吸の音が聞こえる。私も大学の授業ほとんど寝てたから分かる。まあ静かな芝居だしね、分からなくもないけど、ちょっとだれか起こしてあげてくれないかな。一番席近いの私か?私が注意すべきか?いやでも、勇気要るな~やだな~。早く言えよって思われてる気がする。なんかごめんなさい。

そうしてモヤモヤしている間に公演が終わり、会場が拍手に包まれる。おじさんも起きて、拍手。いやいやあなたほとんど観てなかったでしょう。何への拍手やねん。と心の中でツッコミを入れつつ私も拍手。

「ふう~」

と最後はおじさんのため息で締めくくり。アンケートを書こうとペンを握るも、芝居の内容がイマイチ思い出せない。申し訳なく思いながらも「おつかれさまでした」と書いて席を立つのでした。

―― 完 ――

いかがでしょうか。ところどころ伏せたり装飾したりしているが事実に基づいたフィクションだ。劇場だけでなく映画館でも同じようなことが起こることがある。こんな日、私は「ああ、今回はハズレをひいちゃったな」と思ってしまうものだ。

つくる側でもある私がこういうことを言うとまるで「公演中の居眠りは禁止です」とか「音の出る行動は控えてほしい」とかいうメッセージに見えてしまうかもしれないが、そうじゃない。この話で伝えたいことはそこじゃない。

私だって観劇中に膝上のパンフレットをバサッと落としてしまうことはあるし、うとうとしちゃうこともある。もし公演会場に「公演中は音が出る行為は控えてください」「居眠りはおやめください」って禁止事項がずらっと貼ってあったらめちゃくちゃ窮屈だし、もう行きたくないと思ってしまう。

ここで言いたかったことは観劇マナーどうこうではなく、そもそも観劇の満足度って結構、自分だけではどうにもならない要素に大きく左右されてしまいませんか?という問いである。しかもその「どうにもならない要素」のひとつというか、むしろほとんどは、自分と同じように観劇に来ている他者の存在なのでは?と今の私は思っている。
(こう思うようになったのはとある本を読んだことがきっかけで、とても良い本だったのでまた改めて紹介したい)

観劇には当たりはずれがある。観劇を目一杯、他の事をなんにも気にせず楽しみたいけれど、その日その場所にどんな人が集まるかは分からない。もっと言うとどんな会場で、気温はどれくらいで、トイレがたくさんあるか、自販機があるかないかみたいなことも事前には分からないケースはたくさんある。会場に行ってみて、席に座って、公演が始まって、初めて分かることがたくさん。賭けの要素が大きい。

「運が良ければ」ばっちりコンディションが整って大満足の観劇体験を得られるかもしれないし、「運が悪ければ」気が散る出来事が重なって作品に集中できないかもしれない。運まかせ。

前回の記事でも書いたように、私は演劇空間を心地よいものにしたいと思っている。そのためにはこの「満足できるかもしれないしできないかもしれない」という運まかせな要素はできるだけ取り除いていきたい。理想を言ってしまえば「さよならキャンプの公演なら100%満足できる」みたいな状況をつくりたい。そんなことできないよ、と言われてしまいそうだけど、やらないよりはやったほうが100に近づくだろうから、やってみることにする。

ここでいう100%満足は、100人中100人のお客さん全員が「さよならキャンプの公演だいすき!」と言ってくれることではない(もちろんそうなったら嬉しいけど、そこは目指していない)。作品の良し悪しや好き嫌いは100人さまざまであってほしいし、なんなら「私は好きじゃなかった」と思う人も疎外感を抱くことがない、居心地の良い空気をつくりたい。

「じゃあ、あなたが目指す100%満足ってどういうことなんだ」というところを次回考えていくことにする。つまり、私は演劇空間でどんな光景を見たいのか。











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