演劇を観に行くときに「今回は大丈夫か?」と心配になる話
私は福井県で演劇をつくっている。演劇を観に行くこともある。多くは県内公演で、観劇のために県外に出かけることも時々、年1~2回くらいある。
県内公演の場合。事前に公演チラシやSNSを見て「面白そう!」と思って観に行くこともあれば、正直なところお付き合い半分で行くこともある。お付き合いというのは、例えば自分の公演の時に観に来てくれたり、手伝ってくれたりした方が関わっているとか、その他もろもろだ。
どちらにしても、せっかく観に行くのだから気持ちよく観劇して帰りたい。でも公演チケットを予約するときに、もしくは会場に向かう道中でも、ふと心配になることがある。今回は大丈夫か?
というのも、観劇には当たりはずれがある。というとめちゃくちゃ嫌な感じに聞こえてしまうけれど作品の良し悪しのことを言いたいわけではないので演劇関係の方怒らないでください。もちろん面白かったとかつまらなかったとか感想を抱くことはあるけれど、それだけで当たりとかハズレとか判断しているわけではないし、むしろ作品をつくるってすごいことだと思うので、それはもうシンプルに尊敬しています。
私が言う当たりはずれは作品そのものではなく、観劇という行為そのもののことだ。例えばとある公演を観に行った私の心境を再現してみるとこんなかんじ。
いかがでしょうか。ところどころ伏せたり装飾したりしているが事実に基づいたフィクションだ。劇場だけでなく映画館でも同じようなことが起こることがある。こんな日、私は「ああ、今回はハズレをひいちゃったな」と思ってしまうものだ。
つくる側でもある私がこういうことを言うとまるで「公演中の居眠りは禁止です」とか「音の出る行動は控えてほしい」とかいうメッセージに見えてしまうかもしれないが、そうじゃない。この話で伝えたいことはそこじゃない。
私だって観劇中に膝上のパンフレットをバサッと落としてしまうことはあるし、うとうとしちゃうこともある。もし公演会場に「公演中は音が出る行為は控えてください」「居眠りはおやめください」って禁止事項がずらっと貼ってあったらめちゃくちゃ窮屈だし、もう行きたくないと思ってしまう。
ここで言いたかったことは観劇マナーどうこうではなく、そもそも観劇の満足度って結構、自分だけではどうにもならない要素に大きく左右されてしまいませんか?という問いである。しかもその「どうにもならない要素」のひとつというか、むしろほとんどは、自分と同じように観劇に来ている他者の存在なのでは?と今の私は思っている。
(こう思うようになったのはとある本を読んだことがきっかけで、とても良い本だったのでまた改めて紹介したい)
観劇には当たりはずれがある。観劇を目一杯、他の事をなんにも気にせず楽しみたいけれど、その日その場所にどんな人が集まるかは分からない。もっと言うとどんな会場で、気温はどれくらいで、トイレがたくさんあるか、自販機があるかないかみたいなことも事前には分からないケースはたくさんある。会場に行ってみて、席に座って、公演が始まって、初めて分かることがたくさん。賭けの要素が大きい。
「運が良ければ」ばっちりコンディションが整って大満足の観劇体験を得られるかもしれないし、「運が悪ければ」気が散る出来事が重なって作品に集中できないかもしれない。運まかせ。
前回の記事でも書いたように、私は演劇空間を心地よいものにしたいと思っている。そのためにはこの「満足できるかもしれないしできないかもしれない」という運まかせな要素はできるだけ取り除いていきたい。理想を言ってしまえば「さよならキャンプの公演なら100%満足できる」みたいな状況をつくりたい。そんなことできないよ、と言われてしまいそうだけど、やらないよりはやったほうが100に近づくだろうから、やってみることにする。
ここでいう100%満足は、100人中100人のお客さん全員が「さよならキャンプの公演だいすき!」と言ってくれることではない(もちろんそうなったら嬉しいけど、そこは目指していない)。作品の良し悪しや好き嫌いは100人さまざまであってほしいし、なんなら「私は好きじゃなかった」と思う人も疎外感を抱くことがない、居心地の良い空気をつくりたい。
「じゃあ、あなたが目指す100%満足ってどういうことなんだ」というところを次回考えていくことにする。つまり、私は演劇空間でどんな光景を見たいのか。
この記事が参加している募集
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?