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憧憬が足りない (ザ・クロマニヨンズと神聖かまってちゃん)

 久しぶりにザ・クロマニヨンズを聴いてみようと思った。「生きる」という曲が気に入って、(ああ、やっぱりザ・クロマニヨンズはいいなあ)と思った。
 
 私の中ではザ・クロマニヨンズ(ブルーハーツ・ハイロウズを含め)は「ロック」だ。神聖かまってちゃんも「ロック」だ。しかしワンオクはロックではない。私の中ではそう判断している。
 
 「ロック」とか「文学」とかはあるジャンルではあるが、一つの哲学でもある。私としては、文学も、ロックも、本人の内臓をさらけ出して欲しい。薄化粧して照明の当たった顔を見せられても(それは嘘だろう)と思う。
 
 「生きる」という曲で気に入ったのは、曲から滲み出てくる『憧憬』の観念だ。歌詞を引用してみよう。
 
 〈黄土色のサファリルック/中南米あたりの探検家/捕虫網と虫眼鏡とカメラ〉
 〈謎のキノコをかじる/三億年か四億年/見えるものだけ それさえあれば/たどり着けない答えはないぜ〉
 (ザ・クロマニヨンズ「生きる」)
 
 こうした歌詞から滲み出てくるのは、どこか遠くのもの、見えないもの(「見えるもの」と言っているが)に対する淡い憧憬である。それは例えば「中南米あたりの探検家」という具象的イメージとして現れてくる。
 
 また「三億年か四億年」というのも、何億年という人間からすれば極めて大きい時間間隔をあえて「三億年か四億年」というアバウトな表現にしている。これは、自分達が生きている短い時間間隔では物足りなく感じて、もっと大きい時間軸の世界に飛び出したいという願望の発露だろう。「謎のキノコをかじる」も同じだ。未知のものへの憧れが滲み出ている。
 
 私は、今の大衆社会にかなりうんざりしている。ごく短い期間、ユーチューバーをやって、たらふく金を稼いだ人間がでかい顔をして、偉そうな発言をしている。ツイッターのトレンドを見ると、くだらない話題をみんなでごちゃごちゃと話している。
 
 私は自己啓発というものが基本的に嫌いだが、それらが嫌いなのはわかりやすく言えば「しょぼい自分」を肯定するものだからだ。
 
 今の社会は、「しょぼい自分」を肯定する言説に満ち満ちている。うんざりだ。くだらない連中が短い時間的スパンの中で群れ騒いでいる。
 
 先日、空手家の動画を見ていたら、太極拳の中国人のおじさんが出てきた。おじさんは「太極拳の世界では40年、50年なんて大したものじゃない事がわかった」「私は死ぬまで、師匠は越えられないだろう」などと言っていた。私はそのおじさんが気に入った。
 
 何かをやるのであれば、死ぬまでたどり着かないものをやって欲しいものだ。卑小な、くだらない事が騒いでいる人間が多すぎる。自分という小さな殻に閉じこもって、それを肯定してもらおうと待ち構えている人間が多すぎる。
 
 圧倒的に足りないのは、何か大きなものを感受する能力である。自分の卑小さを発見する能力である。小人が群れ騒いで、その数が増せば大きな事に転換するのか。小人が万人で動けば、それは極めて巨大な出来事になるのか。もちろん、数は力であるから、空間的にはそうなるだろう。しかし、それ事態が持っているスケールは変わらない。
 
 自分よりも巨大なものを感受する能力は、その巨大なものから自己を見つめる視点に転換された時、自分の卑小さ、情けなさ、人間の限界といったものが発見できてくる。凡人はこれを「謙虚」だとか「自虐」だとか言うかもしれないが、そうではない。自己の小ささを知る人間というのは、自己よりも大きいものを知っている人間である。要するに、彼は大きな認識能力を持っている為に、自分の凡庸さやくだらなさに気づいてしまった人間である。
 
 憧憬というのは『詩』というものの本質だと言ってもいいだろう。例えば、こうした憧憬は折口信夫の「妣が国・常世へ」に見られる。
 
 「詩がわからない」というのが今の世の中の特徴と言ってもいいかもしれない。大きなもの、遥かなものに向かっていこうという気配が全くない。小さくまとまった優等生が頭を並べて競争しているだけだ。その結果は、多少大きな家を建てて喜んでいるという風だ。
 
 私はJPOPミュージックも好きではない。そのほとんどが恋愛の曲で、手近な欲望充足を願望のすべてにしようとしている。
 
 ある個人が満足するという時、それはその個人そのものが最終到達点だという事だ。自分に自信を持ちたい、自分を肯定したい、という大衆がわらわらといて、彼らに対して、適切な自己肯定のアイテムを授けるものが、承認されて、崇められる。しかし、それらすべては卑小なものだ。どこまで空間的に拡大したところで。
 
 ザ・クロマニヨンズの「生きる」はそういう意味で、久しぶりに生きた人の声を聴いたというか、素直に(いい曲だな)と思えた。
 
 私にはよく似ていると思うので、神聖かまってちゃんの「大阪駅」という曲の歌詞を最後に引用しよう。神聖かまってちゃんにおいても、の子なりの憧憬というものがある。の子の憧憬は、社会の多数者によっていじめぬかれたものであり、ザ・クロマニヨンズのそれとは世代が違うので、曲調や歌詞の雰囲気も違うが、何か大きなものへの憧憬という意味では共通のものがある。
 
 〈僕は大江戸線から大阪駅へ/1人旅が電車に乗って/ずっと前から僕はこんな事をしてみたかったんです/大江戸線から大阪駅へ/夜にかけて外眺めたら/ガキの頃には言えた超すげえ!って/僕自身をワクワクさせたいんだ〉
 (神聖かまってちゃん「大阪駅」)

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