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夢から覚める ーー文学とは何かーー

 文学とは夢から覚める過程を描くものだと思う。文学が「夢から覚める」がテーマだとすると、エンターテイメントは逆に、「夢に酔う」のがテーマだと言えるだろう。

 ここで「夢」だと言われている事は、多岐にわたるが、それらすべてを取り上げる事はできない。また、夢に耽溺している文学作品も探せばあるだろうが、基本的には、文学は夢から覚める方向に向かう。だからこそ、我々は優れた文学作品を読み切った時、そこに単なる個人の心情や感覚の発露だけでなく、「真実」が暴露されたという感覚を得るのだろう。

 具体的にはセルバンテスの「ドン・キホーテ」が浮かぶ。主人公ドン・キホーテは、騎士道物語を読みすぎて、おかしくなっている人物だ。彼は狂気に陥っていて、自分を騎士と思い込み、痩せたロバを名馬と思い込み、田舎の娘を姫だと勘違いする。彼は狂気につかれて、現実のスペインに乗り出す。

 「ドン・キホーテ」という作品全体に、ドン・キホーテの勘違いが撒き散らされている。ドン・キホーテは全てを取り違える。彼は、幻想で全てを染色するが、その下には生な現実のスペインが現れ、ドン・キホーテを徹底的に叩きのめす。それでもドン・キホーテは勇気を失わず、騎士として世界を正す為、冒険を続ける。

 「ドン・キホーテ」は作品の最後では、狂気から癒える。そうして死んでしまう。それが作品の終わりにあたっている。

 「ドン・キホーテ」の中で「夢」に該当するのは騎士道物語だ。騎士道物語という幻想を懐いて、ドン・キホーテは世界の中を活動していく。時と共に、彼はその夢から覚めていく。夢から覚めていく過程が文学だというのは、そういう事だ。

 ところで、この「夢」とはどういうものだろうか? 人は、「ドン・キホーテ」を読んでゲラゲラと笑うのかもしれない。滑稽な、おかしな人物であると。だが、「ドン・キホーテ」という作品が伝えている真実は、それを読んでいる我々もまた自分の騎士道物語を信じているのではないか?という事ではないか、と私には思われる。

 ここにはアイロニーがある。つまり、「ドン・キホーテ」は風刺的作品だ、というアイロニーが。だが、このアイロニーは読者の我々が自分が抱いている騎士道物語に気づけない事によって発生するアイロニーに過ぎない。私は常々思うのだが、偉大な作品に刻印された複雑で深淵な思想というのは、実際には真面目で、正直な作者によって辿られたものではないか。

 ただ、彼ら作者が真実にたどり着くまでに歩いた道程があまりにも長いという事が、スタート地点にいる我々には皮肉に感じられるのである。真実は率直、無私な、当たり前のものとしてそこにある。ところが、我々がそこにたどり着くにはあまりにも遠回りしなければならないという事実が、真実というものが故意に歪められて、複雑な形が描かれているように感じる原因になっていると私は思う。

 作者セルバンテスは、実際に、幻想に憑かれてスペインをほっつき歩いて、それが幻想であるとある時気づいた。彼は夢から覚めた。だから、夢の中にいる人物(ドン・キホーテ)を描けたのだ。我々はこの本を読む時、自分が夢の中にいるとはつゆとも思わない。我々は「ドン・キホーテ」を他人事として読む。真実はあまりに遠い、だからかえって、「ドン・キホーテ」はあまりにも簡単な作品に思えてしまう。

 ある精神科医がこんな事を書いていた。精神病に困っている人に、同じ病に苦しんでいる人についての本を渡した。患者は本を読む。ところが、彼はそれが自分と同じ症例だと気づかない。「へー、こんな人もいるんですね」と言って、本は返された。ある種の患者は「こんな人」が「自分自身」だとどうしても気づかない。

 我々もまた似たようなものではないか。我々もまた、なんとしても自分が夢を見ている事に気づこうとしない。ドン・キホーテが狂気に取り憑かれている様を読んで我々は笑うが、我々が取り憑かれている狂気に関してはいつも正気だと思いこんでおり、それが否定されると途端に怒り出して、反対者を徹底的にやり込める。それこそはまさにドン・キホーテ本人ではないか。

 文学というのは夢から覚める過程を描く、といったが、それはまず夢を見ている状態を経なければならない。言い換えれば、最初から夢から覚めていては、夢から覚める過程が描けないので、文学にはならない。最初から概念としての結論を持っていても、それだけでは過程を欠いており、文学を構成できない。文学はある種、頭の「悪い」人間こそがやるべき事なのだろう。

 夢から覚める、という事についてもう一つ例を上げる。「源氏物語」だ。こちらは、騎士道物語と違って、恋愛という名の夢から覚める過程を描いている。

 「源氏物語」は恋愛小説として読める、という評があるが、ただの恋愛小説が古典として残る事はないだろう。恋愛という名の夢から作者が覚めていく過程が作品化されているからこそ、「源氏物語」は古典なのだろうと思う。

 科学史家の伊東俊太郎は「『源氏物語』と日本女性の自立」という文章を書いている。『源氏物語』という作品は最後は浮船という女性のエピソードが記されているのだが、その締めくくりは、薫という男性貴族の慨嘆となっている。浮船は、薫と匂宮との間の三角関係に悩んで自殺を決行するが、未遂に終わる。彼女は僧に助けられる。彼女は男の手を逃れて、仏教に救いを求めて、出家する。

 作品の最後は、薫が未だに浮船を思い煩っている台詞で終わっている。伊東俊太郎はそれを以下のように訳している。

 「〔薫は〕いつかいつかと待っていたところ、〔小君が〕こんなわけのわからないありさまで帰ってきたので、がっかりしてしまい、一体どうしていいか分からず、自分も前に彼女をうまい具合に宇治にかくしておいたことがあるので、こんども誰かが彼女をかくしおおせているんだなーーですって。」
 (※注 薫は浮船に会うために小君に文を託している)

 伊東はそれに以下のような注釈を記している。

 『ここに「ーーですって」としたのは「ーーとぞ」の訳であるが、このあとに「男って馬鹿ね。まだ何も分かっていない。アッハハハ」という式部の哄笑が聞こえてくる。事実ここに至っても薫は浮船の経てきた心の内部の苦しみや悩みを少しも分ろうとしていない。自殺未遂の果てにたどりついた彼女の心の深まりを全く理解できない。』


 伊東俊太郎がここで言おうとしている事は明白だ。最後の薫の台詞の後に、伊東は作者紫式部の哄笑を読んでいる。紫式部もまた、当時の社会状況の中で、中流貴族の女性という出自故にずいぶん苦しんだ存在だった。その苦しみが、彼女を夢から覚めさせたのだろう。その夢の果てが、作品の最後には残っている。浮船はあちら側に渡ってしまう。そこで作品は途切れる。夢を見ている男は此岸に残されたままだ。

 このようにして、夢から覚めるというのが文学の本質として考えられるのではないか。ドストエフスキーの「罪と罰」も、ラスコーリニコフが自らの思想という名の夢から覚める過程の作品だと考える事ができる。「ドン・キホーテ」と同じ構造で書かれた「ボヴァリー夫人」も、夢から覚める物語として読めるだろう。「ボヴァリー夫人」には主人公エンマが、小説ばかり読んでいたという描写が序盤にあるが、彼女は小説のような恋がしたかった。その夢が破れていく過程が「小説」という形式で描かれている。

 夢から覚めていくのが文学だ、ととりあえず言えるかと思うが、全く夢を見ない人生というのはおそらくないのだろう。また、夢を生み出すのは自身の欲望であり、欲望が幻想を形成し、形成されたものを維持しようとする。幸運にも、幻想を維持できるような環境にいる人間は、幻想から逃れる事はできない。彼は幻想を抱いたまま死ぬが、それはある意味で幸福な人生だと言えるだろう。

 エンターテイメントが文学に取って代わった今の社会は、夢の中に陶酔する事を絶対的に良しとする社会だと言い換える事ができるだろう。典型的なハリウッド映画の最後、幸福なカップルのキスを、ある哲学者は、「瞬間」を「永遠」に変える魔術のようなものだと評していた。ここでは、夢の中の頂点が絶対化され、絶対化された瞬間に舞台の幕は落とされる。

 エンターテイメントは陶酔を良しとするが、エンターテイメントに欠けていたものは、現実の我々が補う事になるだろう。我々は、自分を騎士だと思い込んだドン・キホーテのような存在だが、これらに騎士であるという幻想を供給し続けるのがエンターテイメントだ。

 しかし現実には我々はそんな風に生きられない。我々は、生な現実と出会い、自分が騎士でないという事実を突きつけられる。だが、社会全体が夢から覚める事を禁じている今の状況において、夢から覚める事が、この社会でいかなる意味を持つ事になるのだろうか。それは私にもわからない。

 ただ言えるのは、夢はあくまでも夢であろう、という事だ。ジョージ・オーウェルは「1984年」で悪夢が現実化した世界を描いた。一方、ハックスレーは「すばらしい新世界」で天国のような夢の世界を描いた。だがどちらも夢であるという点で、やがて覚めなければならぬものだと、作家は感じて書いている。

 夢はどこまで続いても、また、夢から覚めた人間を精神病院に閉じ込めてみてもーーやはり夢だろう。文学というのはそういう夢から覚める過程を描くものだと思う。とすると、どれだけ最先端の技術が発展しようと、そうした技術を利用して、人が何度でも心地よい夢に浸ろうとするなら、そこから覚めていく過程としての文学も機能しなければならない事になるだろう。人が夢に陶酔すればするほど、エンターテイメントが隆盛になるほど、そこから覚めていく文学もその裏で、自分の出番を密かに待ち受けているのだろうと思う。

 

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