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つきあいたい
私は普段、普通の人間として生きている。ブログで書いているような面倒くさい哲学的思考は全然披露していない。そんな事をしていたら、疲れてしまう。
私はごく普通の人間として振る舞い、笑い、怒り、悲しみ、生きている。しかしそんな全体に対して疲労する事もある。
いわゆる「世俗の生活」というやつだ。昔の人間が山に籠もって庵に引きこもった気持ちがわからないでもない。生活には小さな喜びや悲しみがあるが、大望が欠けている。
私がネット上に文章を残すのは、生活の中で発散できなかった感情の残滓が、自らの存在権を訴えているからだ。私はそれに対して受動的である。私の中で、生活に収まらない何かがあるから文章を書く。ただそれだけの事で、それ以上の意味はない。
※
RCサクセションに「つ・き・あ・い・た・い」という曲がある。昔、吉本隆明が褒めていて、気になって聴いた。
歌詞は次のようになっている。
【「つ・き・あ・い・た・い」作詞:忌野清志郎
もしオイラが偉くなったら
偉くない奴とはつきあいたくない
(中略)
オイラがむかし世話になった奴でも
いくらいい奴でも つきあいたくない
だけどそいつが アレを持ってたら
俺は差別しないOh、つきあいたい】
(ブログ「コピーライターの頭の中」より引用)
私はこの曲を聴いて(忌野清志郎はわかってるなあ)と思った。
もっとも、人は何をわかっているのか、と尋ねるに違いない。しかしそんな事にまともに答えてどうなるというのか。
…歌詞にあるように、私もまた、偉くなったら、偉くない奴とは付き合いたくない、と思う。偉くなったら、昔からの友達でも、偉くない奴とは付き合いたくない。
では、偉いから、偉い奴と付き合うのがいいのか。…少し考えてみればわかるが、実際にはどちらも同じ事なのだ。偉くない奴が偉くない奴と付き合う事、また、偉い奴が偉い奴とつるみたがる事、どちらも同じ事なのだ。
どっちも凡庸なのだ。私を真に疲労させるのは、この世界には世俗以外の価値観がないという事だ。下も上も変わらない。例えばホリエモンという人物、その顔つきには「大衆」の刻印が堂々と押されている。
さて、忌野清志郎は上記のような逆説的な歌詞で何を言おうとしているのだろうか。
キーとなるのは「アレ」である。「アレ」とはなんだろうか。
もちろん、そこをはっきり言わない事が大切なわけだ。しかし「アレ」だけでも推測はできる。
「アレ」というのは、偉いものと偉くないものとの間を貫通しているものだ。そう考えられる。そういう価値観を忌野清志郎は指しているのだろう。
「アレ」を持っている奴とはつきあいたい。ぜひともつきあいたい。そいつが偉くなくとも。何故だろうか。なぜならそいつは、偉いとか偉くないとかいう価値観を越えた何かを持っているからだ。だから、偉くなって、偉い奴としかつきあいたくない、そんな「オイラ」にとっても、「アレ」を持っている人間はやっぱりつきあいたい人間として現れてくる。
※
私の友人は、某有名アーティストと懇意にしている。彼はごく普通の若者で、そのアーティストを文字通り崇拝している。
彼はそのアーティストの音楽性とか、楽曲を評価しているわけではない。そうではなく、そのアーティストが「偉い」から、その「偉い」人が「偉くない」自分とつきあってくれているから、そのアーティストを崇拝しているのである。
彼には「アレ」がない。それは明白である。もちろん、だからだめだという事ではない。むしろ世間的にだめなのは私の方だ。「アレ」にあまりにも固執している私の方だろう。
私もまた「アレ」がある人とは付き合いたい。しかし「アレ」が認められる価値観はこの世界に存在しているだろうか。「アレ」と言われてピンと来る人はどれくらいいるだろうか。
…もしかしたら、全然いないかもしれない。しかし、私も「アレ」がある人とはつきあいたい。彼がどれほど偉かろうが偉くなかろうが、私がどれほど落ちぶれようがどうなろうが、そういう人とはつきあいたい。つきあってみたい。