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#3 他人の最高を見て、自分の最高が霞んでしまうSNSのパラドックス

SNSデビューしてまだ3日目。とりあえず投稿してみようとたくさんアイデアを考えたものの、「これが僕の最高傑作だ!」とドヤ顔でアップしようとした写真が、他人の“もっと最高”な投稿の中に埋もれてしまうことに、早くも気づいてしまいました。

僕は、いわゆる“普通の男”です。 人の目を気にしすぎたり、ちょっとしたことで一喜一憂したりする、ごく一般的な人間。だからこそ、SNSを眺めていると、どんどん自分が小さく見えてしまうんですよね。僕が投稿しようとした自慢のランチ写真も、他人の超豪華なコース料理の写真を見た瞬間に色あせてしまう。僕の“最高”が、他人の“さらに最高”に霞んでしまう瞬間の虚しさ。

SNSは、まさに自分の理想を投稿する場です。自分のハイライトだけを切り取って世界に見せているような。それは、映画の予告編だけを集めた、夢のような世界。でも、その裏には自分の予告編が誰かのもっとすごい予告編に負けてしまう、絶えない比較の連鎖があると感じました。

なので、「加工された現実と現実のと乖離」について感じたことを解説してみようと思います。



1.SNSの魔法と、その罠

SNSは、現実世界とは異なる魔法の空間です。誰もが自分の最高の瞬間を、完璧なフィルターで飾って発信できる場所。僕も、「これならいいねがたくさんもらえるかも!」と思いながら、ちょっと見栄を張った投稿をしようとおもったんですね。でも、その一方で、スマホの画面をスワイプするたびに、僕の最高が、他人のもっと完璧な“最高”に打ちのめされてしまうのです。

例えば、僕が自慢のランチをアップしようとして「よし、これは映えるはず!」と満足した瞬間、次に流れてくるのは他人が投稿した豪華なレストランのフルコース。僕の料理が、一瞬でしょぼく見えてしまう。SNSにアップされるのは、誰かの“映画の名シーン”ばかりで、自分の名シーンが途端に色あせて見えるのは、本当に不思議な現象です

2.比較の罠にハマる僕ら

僕たちはなぜ、SNSで他人の最高を見て、自分の最高が霞んでしまうのでしょう?それは、SNSが“比較の舞台”として設計されているからです。人間は本来、他人と比べて自分の位置を確認し、安心を得る生き物。だからこそ、SNSは比較のトリガーを簡単に引いてしまうからなのかなと思いました。

SNSでは誰もが“輝く自分”を見せたがるし、僕もその一員です。けれど、他人の投稿がさらに輝いていると、どうしても劣等感を感じてしまう。SNSは幸せをシェアする場所のはずが、気がつけば、他人の幸せと自分を比べて消耗してしまう場所になっているようにも感じました

3.SNSの設計と比較の心理学

SNSは本来、人とのつながりや情報の共有を目的に作られたツールですが、その設計には心理的な要素が巧みに組み込まれています。アルゴリズムは、より多くの「いいね」やコメントがつく投稿を優先的に表示します。その結果、私たちが目にするのは、極端に目を引く“理想的な現実”ばかり。これは、人間の心理的傾向である“社会的比較”を無意識に引き起こし、自己評価を低下させやすくするメカニズムです。

心理学者レオン・フェスティンガーの「社会的比較理論」によれば、人は自分の能力や価値を他人と比べて測る傾向があります。SNSはその比較を加速させ、他人の投稿を見た瞬間に自分の価値を再評価するトリガーとなっているのです。この仕組みは私たちの幸福感を脆くし、自分に自信を持ちにくくする原因になっています

4.“最高”とは一体何か?

「最高」という概念は、主観的なものであり、本来は自分自身の価値観に基づくものです。しかし、SNSの時代において、その“最高”が外部の価値基準、つまり他人の目によって歪められてしまう現象が起きているように感じました。ここで哲学的に考えると、私たちは“自分の価値”をどこに見出すべきなのかという問いに直面します。

古代ギリシャの哲学者エピクテトスは、「他人の評価に惑わされず、自分の内なる判断を信じよ」と説きました。しかし、SNS時代の私たちは、その教えに反する環境で生きている。他人との比較が避けられないこの現実で、どうやって本来の自分を保つかというのは、哲学的な難問です。自分が自分であるためには、他者の存在を必要以上に意識しない強さが求められます。

5.他者の存在を必要以上に意識しない強さとは?

他者の存在を必要以上に意識しない強さとは、自分の価値観や信念をしっかり持ち、他人の評価や意見に左右されずに自分を肯定できる精神的な力です。この強さは、自分自身の内側に軸を置くことで培われると言われていますが、外部の環境や他人の成功・失敗に揺さぶられるのではなく、自分にとって大切なものを自らの基準で判断し続ける力を指します。

正直なところ、他者の存在を意識しない強さなんて、簡単には山田に身につかないものと思いました。でも、もしこの強さを持てたらどうなるのか? 自分なりに考えてみました。

他者を意識しない強さというのは、例えるなら、自分の庭の花に誇りを持つことのようなものかもしれません。僕の庭には小さな子供が植えた花が咲いているけれど、隣の庭にはもっと大きくて華やかな花が咲いている。それを見たとき、「僕の花は小さくて地味だな」と思わないんですよね。ましてや、「いや、僕の庭の花は僕にとって特別な美しさがある」と思えることが、“強さ”なのかもしれません。

山田的な結論としては、この強さは自分の“特別”を大切にすることから始まるのかなと思います。SNSにいると、自分の特別が色あせて見えることがあるけれど、そこで踏みとどまって、「自分が満足しているなら、それでいいじゃないか」と思えるようになりたい。

だから、僕はまだまだ“他者の存在を意識しない強さ”を持っているとは言えないけれど、小さな一歩として、自分の中の“最高”をちゃんと愛する練習をしていこうと思いました。当たり前ですけどいいねもらえるかなとか投稿しようと思って写真を撮っている瞬間バトル挑んでいるようなものですもんね。「僕の特別だから見て欲しい」が動機であればそもそも勝負にならないですし。これが僕にとって、SNSのパラドックスと戦うための、ささやかな戦い方なのかもしれません。

6.自分の最高を大切にするために

こんな風に思い悩むのは、僕だけではないはずです。だからこそ、SNSとの付き合い方を少し工夫してみようと思いました。たとえば、「他人の最高を見ても、それはその人にとっての最高。僕には僕の最高がある」と自分に言い聞かせること。

僕の最高は、誰かのものと比べるためにあるのではなく、自分自身が満足できればそれでいい。他人の投稿に影響されず、自分の価値をしっかり持っていたいものです。もちろん、それが簡単じゃないのは分かっています。僕もまだ道半ばですが、少しずつ自分の心に余裕を持たせて、自分らしさを発信していけたらと思っています!

今後もたくさんこのような投稿をしていくのでTwitter(X)のフォロー、コメントいただけると喜びます!たくさんの方と交流させていただきたいので一言でもいただけると山田喜びます!

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