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大河ドラマ『どうする家康』第22回「設楽原の戦い」の感想

1.長篠の戦い

『日本大百科全書』(小学館)に「岩代橋」「猿橋」を加筆

 武田軍15000人が城兵500人の長篠城を包囲しました。(この時の武田勝頼の本陣は、医王寺と裏山の医王寺山砦です。)

 救援に織田、徳川連合軍がやって来て、設楽原の西の台地に陣城を築き始めました。この時、武田勝頼が取った行動はミスでした。寒狭川を渡って、織田、徳川連合軍と対峙し、設楽原の東の台地に本陣を移してしまったのです。(上の地図では猿橋と鵜ノ口で寒狭川を渡ったことになっていますが、猿橋は武田勝頼が退却する時に使った橋で、正しくは、「鵜ノ口と岩代橋の間の渡河点で渡った」です。)

 武田勝頼が取るべき正しい行動は、「長篠城と設楽原の両方を俯瞰できる鳶ヶ巣山砦に本陣を移す」でした。別働隊の酒井隊が鳶ヶ巣山砦を攻撃しています。多分、地図を見て「本陣を置くなら鳶ヶ巣山砦だ。武田勝頼は鳶ヶ巣山砦にいるに違いない」と思って攻撃したのでしょう。

 『どうする家康』では、酒井隊が三輪川を渡って長篠城へ入っていました。太田牛一『信長公記』では、酒井隊と長篠城の城兵が次々と武田の砦を焼いていくと、留守役の兵は鳳来寺方面へ逃げたとあります。もちろん、渡河点も抑えたでしょうから、武田軍は逃げ道を失いました。寒狭川を背にした「背水の陣」です。織田、徳川連合軍の陣城へ突撃するしかありません。
 ──決選の地は設楽原
 一部の学者が「設楽原ではなく宥海原だ」と主張されていますが、「原」とは「台地」という意味ですので、「設楽久保」かと思います。

 さて、突撃すれば、正面から、時には斜め右や斜め左からも玉が飛んでくるかもしれません。武田軍の作戦は、
 ──両端から攻める。
だったことでしょう。端であれば、玉は正面と、左右のどちらかからしか飛んできません。最初は北端の大宮と南端の竹広が激戦地になったことでしょう。そして両端に織田、徳川連合軍の兵が集まったのを見計らって、中央突破! 中央の柳田が激戦地になったことでしょう。

2.鉄砲の三段撃ち

 「鉄砲の三段撃ち」については、『長篠日記』には、

 予て定め置きし諸手の鉄砲三千挺、「足軽大将佐々内蔵ノ助、前田又左衛門、福富平左衛門、塙九郎左衛門、野々村三十郎、徳山五兵衛、丹羽勘助等、下知次第」と仰せ付けられ、「敵、馬を入れ来たらば、一町迄も打つべからず。間近く引き請けて、千挺宛(ずつ)放ち掛け、一段宛、立ち替わり打つべし。敵、猶も強く馬を入れ来たらば、少し引き退き、敵、引かば、引き付けて放させよ」と下知し給いて、柵際より十町斗り乗り出し給ひ、軍中へ大筒を放ち懸けさせ給へば、色めき立ちて、見えたり。

『長篠日記』

と、3000丁の鉄砲を足軽大将の命令で1000丁ずつ、付かず離れず撃つように指示したとあります。「鉄砲の三段撃ち」について論じた記事を読むと、
 ──千人が一斉に撃つ必要はない。間隔をあけないことが重要である。
と書いてあるのですが、そうでしょうか?
 当時の鉄砲は命中率が低いので、命中率を高める為には、玉が横一列に並んで飛んで来て、避けようの無い状況にすることが重要だと思われます。バラバラに撃ったのでは効果が低いのです。足軽大将(鉄砲奉行)がいるのは、一斉射撃をするのには必要だからでしょう。効率の良い一斉射撃法が「鉄砲の三段撃ち」です。
 「鉄砲の三段撃ち」について論じた記事を読むと、「いかにして間隔をあけない連続射撃をするか」という点に終始し、各種方法を比較実験してタイムを測定していますが、「鉄砲の三段撃ち」の本質は「一斉射撃」にあり、「間隔をあけない連続射撃」は重要ではないと思います。鉄砲を撃てない間は、馬防柵の内側から、遠くの敵には弓を放ち、近くの敵は槍で突いて倒せばいいのですから。

 「鉄砲の三段撃ち」については、完全否定されて終了かと思いきや、中国(明)の『軍器図説』に掲載されており、議論が再熱しています。

『軍器図説』

 豊臣秀吉の朝鮮出兵における日本軍の火縄銃戦術に驚いた中国(明)は、投降兵を召し抱えて「輪流(輪番射撃)」をマスターさせたそうです。つまり、豊臣秀吉の朝鮮出兵では「鉄砲の三段撃ち」が使われていたことが証明されたのです。

 ──設楽原でも「鉄砲の三段撃ち」は使われたか?

 他にも島津の「車撃ち」(繰り出し)、上杉の「烏渡しの法」など、「三段撃ち」に近い射撃方法はあり、もしかしたら、もしかします。
 そもそも「長篠の戦い」の時よりも、朝鮮出兵の時の方が火縄銃戦術は進化しているはずです。その朝鮮出兵の時に「鉄砲の三段撃ち」が使われたということは、前に戻りますが、「鉄砲の三段撃ち」の本質は、中国人が驚いたのは、「一斉射撃」であって、「連続射撃」ではないということなのでしょう。『長篠日記』の織田信長の命令は「間近く引き請けて、千挺宛放ち掛け、一段宛、立ち替わり打つべし」です。これは「3000挺の鉄砲を使い、撃ち手を交替させながら、1回につき1000挺の一斉射撃をせよ」という意味であって、たとえば、「10秒間隔で撃て」という間隔(時間)の指示ではありません。「敵が近づいたら撃て」であって、敵が10秒間隔で近づいてくるのであれば10秒間隔で撃てばいいのですが、寄せる間隔は敵次第なので、1回撃ち、2回目を撃つのは10秒後かもしれないし、10分後かもしれません。ですから指示は「一斉射撃をせよ」であり、「連続射撃せよ」ではないのです。玉も火薬も高価です。有効な使い方をしなければなりません。
 ──下手な鉄砲も数撃でば当たる。
一発一発狙って撃っても、下手な人の玉は当たりませんし、上手い人が撃っても風に流されてはずれることもあります。でも、一斉に撃てば、誰かの玉が当たるのです。連続射撃よりも一斉射撃の方が重要です。

★『どうする家康』では、「鉄砲の三段撃ち」方式ではなく、『歴史探偵』で紹介された「先着順自由連射」方式が採用された。
☆NHKの公式見解:長篠・設楽原の戦いでは、「三段撃ち」は採用しておりません。 後方で順番待ちをして、空きが生まれたら最前線に動いて撃つ、というやり方で描いています。 「準備できた者から次々放て」とセリフでも言っています。

★『どうする家康』では、織田信長が「今後、恐るべきは徳川」と言っていました。この「鉄砲の三段撃ち」は、岡崎信康の提案とされています。織田信長は娘婿の岡崎信康に初めて会い、斎藤道三が娘婿の織田信長に初めて会った時と同様の衝撃を受けたことでしょう。
 『どうする家康』の岡崎信康は、父・徳川家康と共に徳川本陣から戦況を眺めているだけでしたが、実際は大活躍し、武田勝頼は大絶賛しています。


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