福山先生、さようなら。
約40年前。
私の小学校時代は1.2年、3.4年、5.6年とクラス替えは二年毎だった。
担任の先生も"基本"2年間、同じ先生。
"基本"と言うのは異動や結婚、産休…等で2年間受持ちになるとは限らないからだ。
実際、私は1年生から4年生まで毎年担任が変わっていた。
その中でも特殊なパターンだったのが、小学三年生時のこと。
小学三年生の私。9歳。
この年齢は私にとって自我の目覚めと他人と自分の境目を一瞥できる力が芽生えた歳であったように思う。
初めての淡い恋をしたり、遠足が嫌でボイコットしたり。はてまた集団生活について悩んでみたり。
いわゆる「9歳、10歳の壁」なお年頃。
そんなお年頃な学年の担任になったのは"福山聡史"という眼鏡を掛けたちょっと天パの若いお兄ちゃん先生だった。
先生は明るく楽しい授業をする先生で三年四組のクラスみんなはいつも活気があって笑っていたように思う。
いい意味で"絵に描いたような若い男性教師"だった。
私も福山先生を慕っていたし、いい先生だったように思う。
なんせこの年の算数の成績表はなかなかに悪くなかったから。
同じ教科でも興味が待てない単元はとことん成績が悪いという特徴を持つワタシ。
中でも算数はそれが顕著だった。
そんな私が満遍なく算数の成績が悪くなかったのだから、先生は授業が上手い人だったのだろう。
なぜこんな曖昧な表現かというと、実はあまり福山先生のことを覚えていないからだ。
でも、福山先生は私を含めクラスの皆んなに好かれていたのは確かなのだ。
***
「福山先生は"産休代理"なんやって。」
三年生が始まって少ししたある日、急にクラスでそんな話題が持ちきりになった。
今思うと時期的に保護者会があったのだろう。
きっと情報源は参加した保護者から。そして、それを誰かが聞いてきたのだろう。
"産休代理"
小学三年生でその言葉と意味をちゃんと分かっていた子は何人いただろう。
だけど、何となく大っぴらに話題に出してはいけない感じがあったのか、みんな先生の前でその話はしなかった。
家に帰って「福井先生は"サンキューダイリ"なんだって。」と、母に言うと「そうらしいなぁ。折角だから一年間担任持ってくださればええのに。」という返事が返ってきた。
「えっ。先生途中で代わるん?」
「元々の担任の先生が戻って来たらね。福山先生は二学期までって聞いたで。」
私はてっきり三年生までは福山先生で代わるなら四年生からだと思っていたので驚いた。
でも、こういう大人の決まり事は、子供にはどうにもならないことも分かっていたので、私はただ「ふうん。」と返した。
大人になった今なら4月から12月の9ヶ月間なんてあっという間だけど、小学生の9ヶ月は中々長い。
正直、まだまだ先の感覚だった。
春と夏はあっという間に過ぎて、秋になった。2学期は今も昔も色んなイベントがあって慌ただしい。
加えて我がクラスはやんちゃな子も多くて、何かと騒がしいクラスだった。
授業中に男子数名が脱走し学校の先生達が探しに行くという大事件もあった。先生も大変だったと思う。と、言うか捕まえられた男子達が校長室で説教中、福山先生は横で泣いていたらしい。もう大変以外何者でもない。
言っておくが、脱走はこれっきりで別に学級崩壊をしていたわけではない。普段は皆、極めて普通に授業を受けていた。
そんな事をしているうちに気が付きゃ2学期の終わりが近づいていた。
そして二学期最後の日。
最後なのに先生から特別な話も挨拶も無く淡々といつもと変わらない一日だったように思う。なんせ通常過ぎて産休代理で二学期までなんて話は無くなったんじゃないかと思っていた記憶があるから。
ただ、ひとつだけ覚えている。
最後の帰りの会で「起立」「礼」「さようなら」の後に先生は笑顔で
「みんな元気でな!」
と、そう言った。
三学期が始まると福山先生は学校のどこにも居なかった。
居るべき人がいない。何だか狐につままれた気がした。
その代わりに、三年四組の壇上に上がり教卓に手をついて現れたのは本当の担任の小島先生。髪の長いおばちゃん先生だった。
先生が変わってからクラスの空気はガラリと変わった。静かになったというか、大人しくなったというか。悪く言えば元気がなくなった。
小島先生もクラスの空気を変えたかったのだろう。時間をやりくりしてレクリエーションの時間を取ったり、ちょこちょこ先生の子供の頃の楽しい話をしてくれていた事を覚えている。
そうして短い三学期の中頃。
「おい!今度の授業参観に福山先生がくるぞ!」と、まだ先生の居ない朝の時間に誰かが声を上げた。
クラスの中に"年賀状を送りたい"と先生の住所を聞き、その後も福山先生とやりとりをしていた子がいたのだ。
どうやら「授業参観に来て欲しい。」とお願いしていたらしい。でも先生は「今の先生に迷惑が掛かるから。」と、ずっと固辞していたらしいが、粘りの末、最終的に「こっそり皆んなの様子を見て帰ります。」と返事があったというのだ。
クラス中が色めき立つ。
「あとな!"ちゃんと授業には集中して欲しい。"って書いてあったぞ!」
と、その誰かは言った。
皆んなはそれを聞いて顔を見合わせた。
"きっと、ちゃんと真面目にしないと先生は直ぐに帰ってしまう。分かってるな。抜かるなよ。"そんな空気が流れた。
そして当日、朝からみんな落ち着かなかった。授業参観は5時間目。
給食が終わり掃除時間になると、ゴミ捨て係が自ら斥候となり早目に福山先生が来てないかと校門付近まで見に行った。
掃除の後の昼休みが終われば5時間目。集まり始める保護者。この中に福山先生がいると思うとみんなは落ち着かなかった。勿論私もだ。
5時間目開始のチャイムが鳴ると、小島先生が教卓の前に立ち、当番の号令で皆席に着く。教室の後ろにはよそ行きの服に身を包んだ保護者達が所狭しと立っていた。
授業は粛々と進み、クラスの皆は約束を守る様に真面目に前を向いていた。
でも皆んなの意識は完全に参観席である教室の後ろ方向。
授業開始して暫くした頃、「いる」「廊下」「絵のぶら下がっているとこ」と、伝令を繋ぐように廊下側から窓際に向かって幾人かの囁き声が伝播してきた。
示し合わせた訳ではなかったのに見事な連携プレー。みんなが皆、クラス全員に伝えなきゃと思ったのだと思う。
でもあくまで視線は前のまま。
廊下には2学期に描いた写生大会の絵が窓にぶら下がって展示されていた。
どうやらその隙間から福山先生は覗いているらしい。私はこっそり目線をチラリと廊下側に向けたがよく分からなかった。
でも皆、意識がもう完全に教室の後ろから廊下側に移っているのは分かった。
残り授業あと5分になった頃、ひとり、またひとりと何人かから鼻を啜る声が聞こえた。
そして、五時間目終了のチャイムが鳴り当番が「起立、礼、」と、言った瞬間にひとりが廊下に走り出した。
続いて誰かが「黄色と黒の縞々の服や!」と、叫んだのを合図に皆が一斉に「先生!」と口々に叫んで廊下に出て行った。
福山先生はどうやら号令の少し前に教室を離れたらしく、そのままみんな走って追いかけて行った。
私も飛び出し掛けたのだが、ふと先生の手紙に書いてあった"授業参観に行くのは今の先生に迷惑が掛かるから"という言葉が頭に過った。
教室を見ると、後ろで戸惑う保護者と学級委員の中山さんだけが席に座り、小島先生は黙って教卓で教科書と出席簿を片付けていた。
小島先生は今日、福山先生が来ることを知ってたのだろうか。そんな事を考えた。
私は何が正解なのか分からず、右に左と机の前で数秒往復してから堪らなくなって皆んなの後を追いかけた。
何処からか「先生!先生!」と叫ぶ声がする。
2階の窓から外を覗くともう昇降口から上靴のまま走っていく男子数人の姿が見えた。
私が一階の昇降口に着く頃にはもう何人かは諦めてワンワン泣きながら戻って来ていた。
先生は追いかけて来た子に気が付いて走っていったらしい。
元気な子供とはいえ、所詮小学三年生の足。結局、20代男性には追いつけなかったようだった。
最後にクラス一の俊足の向井くんが諦めて昇降口に戻って来た時、それを見たみんなは全てを悟り、目に涙を浮かべたり、声にならない声を上げながら教室に戻った。
その後は六時間目があったのか、そのまま帰りの会になって下校したのか覚えていない。
ただその日。私は一人で下校した。
家まで帰る道中、廊下に保護者がごった返す中、遅れてみんなの背中を追いかけた映像が頭の中で反芻して流れた。
気が付いたら目から涙が落ちていた。
そして私は
「なんで黄色と黒やねん。阪神タイガースやん。」
と、呟いた。
よく分からないけれど、とてもとても悔しかった事を覚えている。
たった9ヶ月。
私は福山先生のことをちゃんと覚えていない。
でもちゃんと三年算数のカリキュラムはちゃんとできる。
昔は学期ごとのスナップ写真の販売もあり、何枚か購入したけれど、運悪くそれには福山先生の姿は写っていない。
でも今手元にあるそのスナップ写真の何枚かは先生が撮ってくれた物だ。
あとは、卒業アルバムの最後に"お世話になった先生方"という欄に記載された
三年生 4組 小島ノリコ 先生 (福山 聡史 先生)
という文字だけが福山先生の痕跡。
その後、小島先生は四年生になった私達の担任にはならず転任して行った。
四年生になった私達の担任になったのは、福山先生をどこか彷彿とさせる眼鏡の若い熱血お兄ちゃん先生だった。
これで、私の中の福山先生の思い出はおしまい。
こんなに覚えていないのに、こんなに記憶に残る先生もなかなか居ない。
ふと福山先生を思い出す時、あの時、授業参観の帰り道、なぜあんなに悔しかったのだろうと考える。
先生に会えなかったからだろうか。
直ぐに追いかけなかった自分にだろうか。
反対に追いかけてしまった自分にだろうか。
福山先生にきちんとお別れの挨拶ができなかったからだろうか。
この沢山の気持ちと感情を受け入れ、片付けようとするには、当時小学三年生の私にはなかなか難しかったと思う。
だから、ひとつだけでも。
福山先生、どうかあの頃の私の気持ちに整頓をさせてやって下さい。
あの日の帰りの会の号令と共に。
起立、礼、福山先生、さようなら。