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石川達三『生きてゐる兵隊』(1)旧日本軍の蛮行がここに【禁書を読む】

世の中がきな臭くなってきた…。
こんな声をよく耳にするようになったのは、この4、5年だろうか。
戦前と似た空気になってきたと言われても、当時を知らぬ身にはやや実感しにくいのだが、それでもなにがしかの危険信号点滅を意識する時はある。
ならば、その時代に出された発禁本、つまり禁書を読んで、少しなりとも当時の空気感を嗅ぎとってみよう。

言論統制が厳しくなった時代には筆禍事件が頻発した。その代表格の主役の一つとなったのが、石川達三の『生きてゐる兵隊』である。


忘れられた社会派作家

最近はすっかり「忘れられた作家」になってしまっているが、1970年代あたりまで、石川達三は文壇に君臨する大御所の一人だった。
『青春の蹉跌』『人間の壁』『金環蝕』…。話題作を立て続けに繰り出し、社会派の作家として名を馳せた。
さらにさかのぼれば、彼は芥川賞の最初の受賞者でもあった。移民としてブラジルに渡った経験をもとに描いた『蒼氓』が評価され、1935(昭和10)年、第1回芥川賞に選ばれている。

その石川達三が1937(昭和12)年、中央公論社の特派員として中国の南京周辺に赴き、実際に見聞きした日本兵のありさまをもとに書き上げたのが『生きてゐる兵隊』だった。

発表されたのは、雑誌『中央公論』の1938(昭和13)年3月号。
検閲の目を恐れて編集者が大幅な伏字を施し、最後の2章はまるごと削除して掲載したものの、内務省からすぐさま、掲載誌の発売禁止が通告された。

その後、石川達三は新聞紙法違反の罪で起訴され、禁固4か月、執行猶予3年の有罪判決を受けた。芥川賞を受け、前途洋々かと思えた矢先の躓きは、
その後の作家人生を大きく左右する出来事となったに違いない。

特派作家として戦地・中国に

まず、当時の社会情勢を確認しておこう。
1937年7月7日。北京郊外の盧溝橋で日中両軍の軍事衝突が発生した。日中戦争の幕開けを告げた盧溝橋事件だ。
近衛内閣は不拡大方針を閣議決定したものの、戦線は拡大し、8月には上海に波及して両国の全面戦争に発展。日本軍は国民政府の首都・南京に向けて攻勢を強め、12月13日に南京を占領した。
この前後に、南京の一般市民や捕虜、敗残兵らが日本兵によって多数殺害されたとされるのが南京事件、いわゆる南京大虐殺だ。

一方、このころ大本営には陸軍と海軍の報道部が設けられ、新聞や雑誌の報道に対し、それまで以上に厳しく目を光らせようになった。
戦時協力の名目のもとでメディアは変質し、各社それぞれに作家の現地特派を活発化させた。尾崎士郎や吉屋信子、岸田國士、三好達治らが戦地に赴き、彼らの文章が紙面を飾る。

こうした中、気鋭の若手作家・石川達三も自ら中央公論社に申し出て、従軍記を書くために中国に向かった。1937年12月25日に東京を出発し、神戸から軍用貨物船で上海に。そこから列車に乗って南京に着いたのは1938年1月5日。日本軍の南京占領から20日余りたった後のことだった。
石川達三はこの後、南京や上海で20日間ほど取材を重ね、帰国後に急いで小説として仕上げたが、発禁処分となったわけだ。

前置きが長くなってしまったが、それでは『生きてゐる兵隊』には何が描かれていたのか。伏字部分も元に戻して戦後に刊行された復元版に基づいて確認してみよう。

小説の大筋は、ある日本軍の部隊が天津近くに上陸してから、いったんは満州を経由して上海に入り、南京に向け転戦していくさまを追ったものである。ただし特定の主人公がいるわけではない。数人の日本兵らによる、いわば群像劇の形式になっているので、主だった兵のプロフィールを紹介していきたい。
なお、作中の表記は原文通りである。

描かれた兵士(1)感情のない殺人機械=笠原伍長

この小説の冒頭、まず衝撃的なのは、部隊が本部としている民家が火事となり、笠原伍長らが容疑をかけた中国人青年を斬殺するシーンだ。

彼〔笠原〕は已むなく自分で青年の後に回り、ずるずると日本刀を鞘から引き抜いた。それを見るとこの痩せた鳥の様な青年はがくりと泥の中に膝をつき何か早口に大きな声で叫び出し、彼に向って手を合わせ拝みはじめた。然し拝まれる事には笠原は馴れていた。馴れてはいてもやはり良い気持ちではなかった。
「えい!」
一瞬にして青年の叫びは止み、野づらはしんとした静かな夕景色に返った。首は落ちなかったが傷は充分に深かった。彼の体が倒れる前にがぶがぶと血が肩にあふれて来た。体は右に傾き、土手の野菊の中に倒れていま一度ころがった。                     

石川達三著『生きている兵隊』中公文庫(以下、記載のない引用は同じ)

「拝まれる事に馴れていた」というのは、これ以前にも笠原が同様の行為を繰り返してきた、ということを示唆しているのに違いない。

笠原は、現地の一般人の命を奪うことを何とも思わない。他の日本兵が姑娘(クーニャン)を殺す場に居合わせても「勿体ねえことをしやがるなあ」と笑いを含んで呟いてみる。
石川達三のペンで、笠原は次のように表現される。

笠原伍長にとって一人の敵兵を殺すことは一匹の鮒を殺すと同じであった。彼の殺戮は全く彼の感情を動かすことなしに行われた。(中略)要するに彼は戦場で役に立たない鋭敏な感受性も自己批判の知的教養も持ちあわせてはいなかったのである。そうしてこの様に勇敢でこの様に忠実な兵士こそ軍の要求している人物であった。

描かれた兵士(2)自由な殺戮の目覚め=倉田少尉

倉田少尉は故郷の小学校で先生をしていたインテリだった。出征して以来、毎日の日記を欠かさない。
天津に着いたばかりの時は、受け持ちの子供を思い出すとともに、ひそかな不安に怯えていた倉田だったが、そうした感覚は徐々に摩耗していく。

「何人斬った?」
「何人か分らんです。濠の中では、もう、滅茶々々でした」
彼〈倉田〉の柔和な綺麗な顔は細いロイド眼鏡の下で良い血色をしていた。彼は昂然と胸を張り。謙譲な静かな声で言った。
「久しぶりに、気持よく働きました。…やはり戦争に来たからには、前線へ出んと気持が暗うていけませんわ」

倉田少尉は昨夜書くことのできなかった日記をこの夜まとめて書いた。
 ――十一月二十日、二十一日。雨。二十日正午ヨリ常熟総攻撃、二十一日  正午マデ二十四時間ノ激戦。中隊長殿戦死セラル。哀痛極マリナシ。
けれどもいま彼は精神上にある転機を感じていた。もはや焦立たしい不安は静まり死のうとする心の錯乱は休まってきたようであった。(中略)中隊長の戦死を眼の前に見たときからその恐怖はもはやひとつ桁のはずれたものとなった。それはある種の実感の飛躍でありまたは陥落であった。あるいは自己の崩壊を本能的に避けるところの一種の適応としての感性の鈍麻であったかも知れない。(中略)そして彼は心のひろがりを感じはじめた。それは一種の自由感であり無道徳観でもあった。とりも直さずそれは無反省な惨虐性の眼覚めであった。彼はもはやどの様な惨憺たる殺戮にも参加し得る性格を育てはじめたのである。それは即ち笠原伍長に近づくことであった。

やがて倉田は、笠原とともに、防寒のために積み重ねた敵の死体を布団と枕にして休息をとるまでに変容していく。

描かれた兵士(3)敵を弔う心の喪失=片山従軍僧

片山は僧でありながら、左の手首に数珠を巻き、右手には工兵の持つショベルを握って戦場を駆け回る。
ほかのどの部隊の従軍僧よりも勇敢に敵に向かい、「北支の戦線で彼が殺した人数は二十人を下らなかった」。

「貴様!」とだみ声で叫ぶなり従軍僧はショベルをもって横なぐりに叩きつけた。刃もつけてないのにショベルはざくりと頭の中に半分ばかりも喰いこみ血しぶきをあげてぶっ倒れた。
「貴様!…貴様!」
次々と叩き殺して行く彼の手首では数珠がからからと乾いた音をたてていた。

友軍の弔いはしても、敵の戦死者のためには手を合わす気になれない、と語る片山。石川達三は、その心性について「僧の心を失って兵の心に同化」したと断じている。

描かれた兵士(4)歪んだロマンティシズム=平尾一等兵

「都会の新聞社で校正係りをしていたロマンティックな青年」。それが平尾一等兵である。彼の繊細な神経は戦場で持ちこたえられず、それを糊塗するかのように、闘争的な大言壮語を吐き続けた。

ある日、戦闘が一段落して煙草を喫っていた兵たちは、近くの農家から聞こえる女の泣き声に気づく。若い女が、被弾して亡くなった母親の遺体を抱いたまま、ずっと泣き続けていたのだった。それに耐えきれなくなった平尾は、真っ暗な農家に踏み込んでいく。

「えい、えい、えいッ!」
まるで気が狂ったような甲高い叫びをあげながら平尾は銃剣をもって女の胸のあたりを三たび突き貫いた。他の兵も各々短剣をもって頭といわず腹といわず突きまくった。ほとんど十秒と女は生きては居なかった。彼女は平たい一枚の布団にようになってくたくたと暗い土の上に横たわり、興奮した兵のほてった顔に生々しい血の臭いがむっと温く流れてきた。(中略)
真先に立って銃剣を振ったのは苦痛から逃れようとする必死な本能的な努力であり唯一の血路であると同時にロマンティックな嗜虐的心理でもあった。ただ一つ彼が最もうれしかったのは四五人の兵が彼と一緒に女を殺してくれたことであった。彼は涙が流れるほどこの兵たちを有難いと思った。

戦場でどこか歪んでしまった平尾のロマンティシズム。南京を攻略したのち、彼は毎日のように慰安所に通うようになる。

そして帰って来ると戦友に向ってこう言うのである。
「俺はな、女を買いに行くんではない。商女不知亡国恨、隔江猶唱後庭花ということを知らんかい。俺は亡国の女の心境を慰めに行ってやるんだ」

描かれた兵士(5)妥協の末の自堕落=近藤一等兵

近藤一等兵は、医科大学を出て研究室で働いていた。医学士であるだけに死体には慣れていたが、スパイと思われる女を殺したことをきっかけに、生命の軽視は医学の侮辱ではないかと考え、心は混乱に陥る。そして、こんなふうに考えるに至る。

そうだ、戦場では一切の智性は要らないのだと彼は思った。(中略)彼はこれを以て疑問をうち切り、煮え上った飯盒の蓋をとりながら微笑して隣の兵に話しかけた。
「さっき俺が殺した姑娘は美人だったぞ。うむ。…生かしておけばよかったなあ…」

真剣な苦悩を経ずに「戦場に妥協」した近藤を待ち構えていたのは、さらなる堕落でしかなかった。

悪く戦場馴れがして何をするにも真剣味のない怠惰な兵になって行った。彼は兵の悪いところばかりに興味をもちすぐに自堕落さを真似てゆき、まるで真面目な学生が不良青年になって行く過程を自ら楽しむように、俺には姑娘漁りもできるぞ、支那兵の死体をわざと踏んで通ることも出来るぞ、街の家に火をつけることも出来るぞと誇っているような風であった。

彼は、酒保で飲んでいるうちに「また女を殺したくなってきた」とつぶやいた挙句に発砲、芸者を負傷させて処分を受けることになる。この作品のラストを飾るエピソードだ。

救いのなかった旧日本軍の現実

殺伐とした描写ばかりが目立つのは、戦場を描いた小説であるから当然なのかもしれない。とはいえ、あまりにも過剰に救いがない。ふた昔前のヤクザ映画も、かくありなんというほど。
それは恐らく、南京に到達するまで人性を保ち続けた者が一人としていない、ということに拠るのだろう。
石川達三は作品の「前記」で、実戦の忠実な記録ではなく自由な創作だと断っているものの、戦後に発表したエッセーでは次のように書いている。

「生きてゐる兵隊」の場合には、若い将校たちのモデルとは軍用船の中で一週間も朝夕に顔を合わせ、彼等の人となりも戦争観もみな知っていた。兵や下士官のモデルとは南京市政府滞在の二十日間、毎日の寝食を共にして充分に知り尽くしていた。したがって戦争という巨大な背景がありながら、登場人物の動きを見失うようなことはなかった。つまり彼等の人物を作品の中に(創造)することができた。

石川達三著『経験的小説論』文藝春秋

多少の脚色やキャラクター編集はあったろうが、『生きてゐる兵隊』が描き出した救いようのない日々こそ、戦争の現実、日本軍の実態だったのだ。

「生きてはいる」けれど…

本書を読み始める前から気になっていたのは、タイトルの「生きてゐる」という言葉だった。
南京への行軍で死んでいったのは無論、中国兵や現地の一般市民ばかりではなかった。日本兵もまた数多く命を落とし、「行軍する兵の何分の一かは戦友の遺骨をもって歩いていた」。

彼等はその遺骨に対して普通の死人や遺骨に感ずるような無気味さも嫌悪の気持ちもなしに、かえって大変に親しいものを感じていた。この骨そのものがまだ生きている様に思うのである、というよりもむしろ、自分が生きているのは仮の姿であり今日のうちにでもこの骨と同じになるのであることを感じていたのかも知れない。彼らは生きている遺骨であったのかも知れない。

日に日に増す戦死者と、減っていく部隊の人数。彼らは自分が「生き残っている」ことが奇跡に思えたはずだ。「生きてゐる」の意味は、そこにこそあった。

(2)では、さらに発売禁止の背景や波紋を掘り下げてまいります。


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奈能利想
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