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石川達三『生きてゐる兵隊』(2)不都合な真実は覆い隠すべし【禁書を読む】

上海から南京に行軍した日本兵への取材をもとに、芥川賞作家の石川達三が書き上げた『生きてゐる兵隊』。現地住民に対する殺戮や掠奪、暴行を描いたその内容は、日中戦争が泥沼化していく時勢のもとで、あまりにセンシティブなものだった。


「安寧秩序」をみだした?

『生きてゐる兵隊』が掲載された『中央公論』1938(昭和13)年3月号の
発売禁止は、発売日前日の2月18日夜、内務省警保局図書課から中央公論社に通告された。その数日後に許可されたのは、問題とされた作品を「切除」したかたちでの発売だった。
ある程度予想はしていただろうが、石川達三と中央公論社が無念を募らせたのは言うまでもない。

発行された『中央公論』1938年3月号は、表紙および目次に《長編小説 生きてゐる兵隊》と掲げているものの、雑誌本体には作品は組み込まれていない。ノンブルを見ると、106ページ分が削除されたことが知られる。そして表紙の左下隅に、《改訂版》の印が捺されている。「編輯後記」には《小説は特に南京まで石川氏を特派して成る250枚の大力作。群小ルポルターヂュを圧せる文学的な一大問題作たることを自負する》とあって、編集部は、《自負》していただけに小説部分が欠けた3月号を悔しがっただろう、と想像されるのである。
自信があったゆえに唇を噛んだのは、作者石川達三も同じであった。のちに起訴されて、判決が出るまでの《謹慎》中に執筆した『結婚の生態』(新潮社 38年11月》」に、次のように書きつけている。《(あれが若しも無事に発表されてゐたら!)もう十遍も考へた口惜しさをまた思い出してゐるのだ。あれが無事に発表されてゐたら、今日までの私のどの作品にもまさる傑作であったかもしれない》、と。          

白石喜彦著『石川達三の戦争小説』翰林書房

当時、言論統制の根拠となっていたのは、ともに明治期に公布された出版法と新聞紙法。中央公論など、定期発行の雑誌は新聞紙法の対象だった。新聞紙法第二十三条は次のような条文だ。

第二十三条 内務大臣ハ新聞紙掲載ノ事項ニシテ安寧秩序ヲ紊シ又ハ風俗ヲ害スルモノト認ムルトキハ其ノ発売頒布ヲ禁止シ必要ノ場合ニ於テハ之ヲ差押フルコトヲ得
前項ノ場合ニ於テハ内務大臣ハ同一主旨ノ事項ノ掲載ヲ差止ムルコトを得 

「安寧秩序を紊(みだ)し」というが、何をもって秩序がみだれたとするかなど、さじ加減でどんなふうにでも言える。
要は、権力者が自在に適用範囲を拡大することのできる、まことに都合のいい法律だったのだ。

中央公論は社内処分を断行

内務省警保局図書課の『出版警察報』によると、中央公論を発売禁止とした行政処分の理由は以下のように掲載されている。

殆ンド全頁ニ渉リ誇張的筆致ヲ以ッテ(イ)我ガ将兵ガ自棄的嗜虐的ニ敵ノ戦闘員非戦闘員ニ対シ慾ニ殺戮ヲ加フル場面ヲ記載シ、著シク惨忍ナル感ヲ深カラシメ、又(ロ)南方戦線ニ於ケル我ガ軍は掠奪主義ヲ方針トシテヲルガ如ク不利ナル事項ヲ暴露的ニ取扱ヒ、(ハ)我ガ兵ガ支那非戦闘員ニ対シ紊リニ危害ヲ加へテ掠奪スル状況、(ニ)性慾ノ為ニ支那婦女ニ暴力ヲ揮フ場面、(ホ)兵ノ多クハ戦意喪失シ内地帰還ヲ渇望シ居レル状況、(ヘ)兵ノ自暴自棄的並ニ動作ニ心情ヲ描写記述シ以テ厳粛ナル皇軍ノ規律ニ疑念ノ念ヲ抱カシメ (中略)以上ノ理由ニヨリ禁止。

花田俊典著『軍隊を書くということ』
國文学臨時増刊 発禁・近代文学誌(学燈社)

さらに石川達三にとって痛手だったのは、味方だったはずの中央公論社が腰砕けとなったことだった。発売禁止となった翌月の1938年3月、編集長の雨宮庸蔵と担当編集者1人を休職処分としたのだ。雨宮編集長は、そのまま4月に退社する。
 今の感覚からすると、なぜそこまでと首をかしげたくなるが、さまざまな圧力が加わったのは間違いないことだろう。

このとき中央公論社にほかの選択肢があっただろうか?
もしここで突っ張れば、いずれ、裁判所による「発行禁止」をくらうかもしれない。発行禁止とは、雑誌発行そのものの息の根を止める処分である。        

河原理子著『戦争と検閲』岩波新書

1938年4月は、まさに国家総動員法が公布されたタイミング。あらゆる経済活動や国民生活が政府の管理下に置かれ、言論統制は一段と厳しくなっていった。メディアの多くはそれに抗うことが出来ず、嫌々ながらも従っていった。
それを「情けない」というのは簡単だが、同じことをまた繰り返さないためには、もっと当時の事情を広く検証する必要があるのではないだろうか。『戦争と検閲』を書いた河原理子が言うように、「検閲とは、自己規制を促す装置」なのだ。

「造言飛語」だった?

石川達三本人も大波に襲われる。4月に雨宮前編集長ら中央公論社の2人とともに書類送検されたのだ。嫌疑は陸軍刑法違反(造言飛語)と新聞紙法違反。「造言飛語」とは端的に言えば、つくり話である。つまり検察当局は「『生きてゐる兵隊』に書かれたことはすべて、筆者のでっち上げ」と片付けようとしたのだ。
 ただし、8月の起訴時には、罪名は新聞紙法違反のみに変更された。さすがに当局も逡巡したのか? もちろんそんな甘っちょろいものではなかった。

「生きてゐる兵隊」に描かれた日本軍将兵の行為が《造言飛語》であると強弁して法廷で《造言飛語》であるか否かが争われることになれば、結果として将兵の真実の姿すなわち現実の《軍規弛緩ノ状況》が暴露されることになりかねないのである。陸軍刑法第九九条の《造言飛語》を理由とするよりは、(中略)作品全体が《安寧秩序ヲ紊》すものだとした方が得策だと検事局は判断したのであろう。

白石喜彦著『石川達三の戦争小説』翰林書房

裁判の結果、3人の被告は有罪判決を受けた。石川達三と前編集長の雨宮は、ともに禁固4か月、執行猶予3年。もう1人の被告である中央公論社取締役は罰金100円を科せられた。
 筆禍による有罪を食らった石川達三は、ありもしない殺戮をつくりあげたわけではなかった。いたずらに日本軍を貶めようとしたわけでもなかった。ただ、「不都合な真実」を広く知ってもらおうとしただけだった。それこそ、政府や軍がもっとも目をつむっていてほしかったところだったのだ。
彼は次のように書いている。

「皇軍は至るところで神の如く」「占領地の住民は手製の日章旗を振って日本軍を迎え…云々」という記事が、どの新聞にも一様に掲載されていた。私はその虚偽の報道に耐えがたいいら立たしさを感じていた。中央公論社の記者にむかって、私の方から、特派記者となって従軍したいという希望をもち出したのは、新聞記事とはまるで違った本当の戦争の姿を見、それを正確に日本の民衆に伝えたいという気持からであった。

石川達三著『経験的小説論』文藝春秋

そしてすべては覆い隠された

考えておきたいのは、不都合というのは「誰に知られると不都合だったのか」ということだ。まず、相手国である中国をはじめとする海外があった。実は、中央公論3月号の発行部数約7万3000部のうち、4分の1にあたる1万8000部余りは差し押さえの前に販売され、一般に出回っていた。『生きてゐる兵隊』はそこから各国語に翻訳され、特に中国では『未死的兵』と題された翻訳が広く読まれた。日本への敵愾心を強めることにつながったのは当然で、判決でもそうした影響が大いに考慮されたとみられている。 

しかし、それ以上に政府や軍部が神経を尖らせたのは、国民が戦争の実態を知ってしまう事だったに違いない。

 政府や軍の首脳部は南京での日本軍の暴虐を知っていた。当時の外務省東亜局長石射猪太郎が38年1月6日の日記に《上海から来信、南京に於ける我軍の暴状を詳報し来る。掠奪、強姦、目もあてられぬ惨状とある。嗚呼これが皇軍か。日本国民民心の頽廃であろう》と書いたのは、よく知られている。畑俊六教育総監(陸軍大将)の日記(38年1月29日付)にも《支那派遣軍も作戦一段落と共に軍紀風紀漸く頽廃、掠奪、強姦類の誠に忌はしき行為も少なからざる様なれば、》云々とある。しかし国民は事実を知らされなかった。1937年から41年まで朝日新聞ニューヨーク特派員を務めた森恭三によると、《日本軍による南京虐殺事件はアメリカの新聞に大々的に報道され、ニューヨーク特派員として、私は当然、これを詳細に打電しました。ところが、東京から郵送されてきた新聞を見ると、一行もそれがでていない》のであった。      

白石喜彦著『石川達三の戦争小説』翰林書房

この時点から太平洋戦争に至るまではまっしぐら。「軍神」という言葉に象徴されるように、名誉の戦死を遂げた兵が神格化される風潮が顕著になった。戦争を止めることはおろか、ほんの少しでも都合の悪いことを口にすることすらできなくなっていった。

政府や軍にもメディアにも、心ある人は少なからずいたはずなのに、愚かしい戦いの実態が国民に広く伝えられることは一切なかった。振り返ってみれば、この『生きてゐる兵隊』をめぐる事案が大きな分水嶺となったのかもしれない。
そして、石川達三自身のスタンスもこの事件を機に微妙に変わっていくことになった。

戦中から戦後にかけての石川達三の「その後」は(3)で。


 
 


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奈能利想
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