石川達三『生きてゐる兵隊』(2)不都合な真実は覆い隠すべし【禁書を読む】
上海から南京に行軍した日本兵への取材をもとに、芥川賞作家の石川達三が書き上げた『生きてゐる兵隊』。現地住民に対する殺戮や掠奪、暴行を描いたその内容は、日中戦争が泥沼化していく時勢のもとで、あまりにセンシティブなものだった。
「安寧秩序」をみだした?
『生きてゐる兵隊』が掲載された『中央公論』1938(昭和13)年3月号の
発売禁止は、発売日前日の2月18日夜、内務省警保局図書課から中央公論社に通告された。その数日後に許可されたのは、問題とされた作品を「切除」したかたちでの発売だった。
ある程度予想はしていただろうが、石川達三と中央公論社が無念を募らせたのは言うまでもない。
当時、言論統制の根拠となっていたのは、ともに明治期に公布された出版法と新聞紙法。中央公論など、定期発行の雑誌は新聞紙法の対象だった。新聞紙法第二十三条は次のような条文だ。
「安寧秩序を紊(みだ)し」というが、何をもって秩序がみだれたとするかなど、さじ加減でどんなふうにでも言える。
要は、権力者が自在に適用範囲を拡大することのできる、まことに都合のいい法律だったのだ。
中央公論は社内処分を断行
内務省警保局図書課の『出版警察報』によると、中央公論を発売禁止とした行政処分の理由は以下のように掲載されている。
さらに石川達三にとって痛手だったのは、味方だったはずの中央公論社が腰砕けとなったことだった。発売禁止となった翌月の1938年3月、編集長の雨宮庸蔵と担当編集者1人を休職処分としたのだ。雨宮編集長は、そのまま4月に退社する。
今の感覚からすると、なぜそこまでと首をかしげたくなるが、さまざまな圧力が加わったのは間違いないことだろう。
1938年4月は、まさに国家総動員法が公布されたタイミング。あらゆる経済活動や国民生活が政府の管理下に置かれ、言論統制は一段と厳しくなっていった。メディアの多くはそれに抗うことが出来ず、嫌々ながらも従っていった。
それを「情けない」というのは簡単だが、同じことをまた繰り返さないためには、もっと当時の事情を広く検証する必要があるのではないだろうか。『戦争と検閲』を書いた河原理子が言うように、「検閲とは、自己規制を促す装置」なのだ。
「造言飛語」だった?
石川達三本人も大波に襲われる。4月に雨宮前編集長ら中央公論社の2人とともに書類送検されたのだ。嫌疑は陸軍刑法違反(造言飛語)と新聞紙法違反。「造言飛語」とは端的に言えば、つくり話である。つまり検察当局は「『生きてゐる兵隊』に書かれたことはすべて、筆者のでっち上げ」と片付けようとしたのだ。
ただし、8月の起訴時には、罪名は新聞紙法違反のみに変更された。さすがに当局も逡巡したのか? もちろんそんな甘っちょろいものではなかった。
裁判の結果、3人の被告は有罪判決を受けた。石川達三と前編集長の雨宮は、ともに禁固4か月、執行猶予3年。もう1人の被告である中央公論社取締役は罰金100円を科せられた。
筆禍による有罪を食らった石川達三は、ありもしない殺戮をつくりあげたわけではなかった。いたずらに日本軍を貶めようとしたわけでもなかった。ただ、「不都合な真実」を広く知ってもらおうとしただけだった。それこそ、政府や軍がもっとも目をつむっていてほしかったところだったのだ。
彼は次のように書いている。
そしてすべては覆い隠された
考えておきたいのは、不都合というのは「誰に知られると不都合だったのか」ということだ。まず、相手国である中国をはじめとする海外があった。実は、中央公論3月号の発行部数約7万3000部のうち、4分の1にあたる1万8000部余りは差し押さえの前に販売され、一般に出回っていた。『生きてゐる兵隊』はそこから各国語に翻訳され、特に中国では『未死的兵』と題された翻訳が広く読まれた。日本への敵愾心を強めることにつながったのは当然で、判決でもそうした影響が大いに考慮されたとみられている。
しかし、それ以上に政府や軍部が神経を尖らせたのは、国民が戦争の実態を知ってしまう事だったに違いない。
この時点から太平洋戦争に至るまではまっしぐら。「軍神」という言葉に象徴されるように、名誉の戦死を遂げた兵が神格化される風潮が顕著になった。戦争を止めることはおろか、ほんの少しでも都合の悪いことを口にすることすらできなくなっていった。
政府や軍にもメディアにも、心ある人は少なからずいたはずなのに、愚かしい戦いの実態が国民に広く伝えられることは一切なかった。振り返ってみれば、この『生きてゐる兵隊』をめぐる事案が大きな分水嶺となったのかもしれない。
そして、石川達三自身のスタンスもこの事件を機に微妙に変わっていくことになった。
戦中から戦後にかけての石川達三の「その後」は(3)で。