たった1つの言葉に救われたあのとき、あの瞬間の記憶。文学と車窓。
そのとき、僕はバスの窓側に座っていた。
部活の遠征で東京から静岡まで憂鬱な気持ちと共に揺られて。
今はもうAirpodsを使っているから、
当時が懐かしく感じてしまうけれど、
有線のイヤホンを両耳に突っ込み、
スピッツの”みなと”を聴いていたのを鮮明に覚えている。
まるで現実から目を逸らすかのように、
広大な海を想像させるイントロに浸っていた。
ちょうど反対側の席の窓から、
真っ青な海が広がっていて、魚の鱗のように光を反射させて、
こちら側の席の窓からは、
何段にも積み重なった真緑の茶畑が展望できる。
その当時は、練習が精神的にも肉体的にも辛すぎて、
ただ毎日が憂鬱で、消えてしまいたいといつも思っていた。
ふとした瞬間に一筋の涙が溢れてきたり、
未来に何の希望も持てなく何もやる気が起きない。
振り返ってみると、鬱になりかけていたか、
もしくはなっていたと思う。
高校3年間ずっとそうだったから、
普通の青春なんてものは1ミリもできなかった。
人は10代で手に入れられなかったものを、
一生かけて手に入れようとする。
と言ったりするけれど、
僕の場合はそれなのかもしれない。
そんな苦しくて絶望的な日々を、
涙をどれだけ流しても乗り越えられたのは、
言葉のおかげである。
もしかしたら、文学や言葉がなかったら、
僕は今いないかもしれないし、
途中で全て投げだして何処かへ、
行ってしまっていたかもしれない。
「明けない夜はない。」
当時は、このたった1つの言葉に救われた。
どんな傷でも、どんな辛い瞬間でも、
時間が少しずつその傷を、出来事を進めて、
ゆっくりと静かに治癒してくれる。
その静岡の遠征でも、
辛いことはたくさんあって、ありすぎて記憶は朧げだけど、
その瞬間1つ1つ、あの言葉に救われた。
呪文を唱えるかのように、
毎日思い浮かべて、口ずさんでいたような気がするし、
周りで病んでそうな人がいたら、
その言葉を贈ってあげた。
結果的に僕は、そのたった一言に救われたし、
自分以外の人も救うことができた。
言葉は偉大だなと思う。
物理的な質量のない、もしくは13文字以内のたった一言が、
その人の人生を変えてしまうことが往々にしてある。
良い意味でも悪い意味でも。
だからこそ、取り扱いには注意すべきだし、
その救われた経験があったから僕は、
それから片っ端から文学を集め始めた。
以前、僕の家に訪れた友人が、
小説から脳科学、人類史、哲学など
色んな分野の本がびっしり敷き詰まった棚を見て、
驚いていたことがあった。
その中の1冊を無作為に取り出して、ペラペラめくりながら
こんなに本読むんだ。本読むとやっぱり何か変わるの?
と尋ねてきたことがあった。
そのときは、あまり長々と語っても、
暑苦しいかなと思って、
読んでると知らないことが知れて案外面白いものよ。
とだけ呟いて、簡潔に終わらせた。
けど本当は違う。
目的は1つじゃないと思うし、
人それぞれ意味は違うと思うけれど、
僕はやっぱりあの、言葉に救われた瞬間が、
原体験としてあって、
「いつか数百、数千冊の文学や言葉に触れていくうちに、
自分、あるいは誰かを救うたった1つの言葉と、
出会えたらいいな。」
というのが本当の理由だ。
その後も、文学に、言葉に、
僕自身が救われたことはたくさんあったし、
逆に誰かを救う瞬間も確かにあった。
渋谷の店内が暗いバーで、
とある経営者がウイスキーのロックを片手に、
放った人生についての散文とか、
夜の高速道路を走っていたときに、
隣にいた恋人が、不安を払拭するために呟いた一言とか、
今はもういない、大学の先輩が、
帰路で教えてくれた大学生活の教訓とか、
そういう、ふとした瞬間に誰かが放った言葉に、
救われる場面が何度もあった。
人は自分が救われたものでしか、
人を救えない。というのは本当で、
その言葉に、過去、救われた瞬間が
その人にも、あったんだろうなと思う。
今でも、あの曲のイントロと共に、
車窓から覗く静岡での茶畑や、
きらきら光る青すぎる海面が脳裏に焼き付いている。
いまだに、あのたった一言の、
言葉に救われる瞬間がある。
これからもそんな言葉と出会うために、
文学を愛していきたい。
幾千の言葉と出会っていきたい。
yama
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