「ある」と「ない」[読書日記]

月 辺見庸(角川文庫)

詩的な文章。散りばめられたメタファー。イメージの奔逸。
それでいて、作品全体から伝わってくるものが確実にある。
「ある」ことと「ない」こととを行き来するかのような文体。それが「存在とは」と問うことを強く喚起する。

主にそれは語り手の視点からのもので、そこでは「さとくん」のことも語られる。
その設定は悪くない。むしろ、おもしろいと思うし、書かれている言葉のいくつもに惹かれもした。
どれだけ障害が重度であっても、それはあくまでも表面的に判別可能な範囲のことでしかなく、個人個人の内奥で蠢いているものがどのようなクオリティのものなのかはわからない。
ということをとてもうまく表現していると思った。

それでもぼくは、この作品になにか引っかかるものを感じた。 
それは「さとくん」のキャラクターのせいかもしれない。
彼はこんなに思慮深かったのだろうか?
いや、そんなふうには書かれていないか。
主な語り手である「きーちゃん」は、さとくんを肯定的に捉えているようだが、それはあの行為の肯定ではない。
ただ彼のなかにあったなにかに、惹かれてはいた。
それはありうることだろう、と気づいた。が、ぼくはそれを認めたくなかったのだ。
そこに引っかかっていたのだ。

そもそもこの作品の登場人物は、あの事件の人間たちとイコールではない。はずだ。
にもかかわらず投影してしまう自分がいた。だから、「さとくん」は最終的には愚かな人物であってほしかったのだろう。
しかしこの物語での彼は、楽しませることにも秀でていた。

文学としてあの事件を語るとしたら、このような方法があるのだ、と思った。
一人称の語りはその人の考えていることが表現されうるが、この作品の場合はそれだけではなく、語り手の思考過程やイメージの鮮やかさ、それらの流動性の高さが表現されている。

そしてそれらはぼくに、安易な答えを提示するわけではない。
この作品は、ある特定の視点から語られているだけで、一般論を打ち出したかったわけではないのだ。
ただただ考えろ、と言ってくる。いいから、お前も考えろよ、と。

一方でぼくは、意味を見つけようとすることが罪なのでは、とも思った。
だとすれば、物語なんかいらないじゃん。いや、意味をもたせない物語というのがあるのか。
なにかしらのイメージ、漠然としたものを投げるような、読み手が自発的に考えるようなもの。
そうか、この作品がそうなのか。

意味や概念じゃなくて、例えば、いま隣で寝ている我が子を見ていて、ぼくはずっと生きていて欲しいと思う。
そこに意味はない。
ただ、そう思うだけだ。

このひとつの小さな、けれど熾烈な感情を否定してはいけないのではないか。
このような感情を持っていたから、人間はまわりを守ろうと社会を成してきたのではないか。他者を「なくす」ことを認めてしまえば、ぼくたちはこの世に生きている限り常に「なくされる」恐怖を抱えていくことになる。
なぜなら、線引きはいつでも恣意的なものだから。彼がそうだったように。

だから「ある」ことを大切にしてきて、「ない」ことを思い、その結果、ぼくたちがいるのではないか。
いや、これもまだ意味に囚われているだけなのかも。

そもそもなにかの意味や意見を表明したいだけなら、物語にする必要性はない。論文的なものでいい。
だけどこの作品は物語として提示されている。
それは詩的でメタファーに富んだものであはるが、物語として提示されたからには、物語だからこその理由がある。
それのヒントになるのが、上述したような、「ある」と「ない」という軸をぶち壊すような文体だ。

懲りずに考える。か
「幸せ」とか「愉快」とかの有無は、なにかをなくすための理由にはならない、と。
そうしてさらに思う。
人の生命に意味があるのだとすれば、だれかに「幸せ」とか「愉快」と思ってもらえるような振る舞いをすることだ、と。
それができれば、人間に生き続ける意思が生まれるのだろう、と。

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