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意味や用法が変わってきている日本語を集めてみました

時代とともにことばは変わって行くものです。それが証拠に、古典文学を読んでも古語辞典を使わないと意味が分からないでしょ(笑)

ただ、それほど長い期間であれば、ことばの変遷に寛容になれるのですが、自分が生まれてから死ぬまでの短い時間にことばが変わってきて、自分が親しんできた意味や読み方や使い方から外れてくるのは正直気持ちが悪いもので、僕もそんなことを note にも何度か書きました。

でも、それは仕方がないことであり、逆にそこがことばというものの面白いところであり、自分が生きている間にその変化を観察できるのは幸せなことだとも思っています。

それで、そんな変化の例をいくつかここに採集しておこうかなと思います。

以下にまとめたのは、私が長年使ってきたのとは違う形に変化しており、かつ、その変化を辞書が認め始めている、あるいはいずれ近いうちに辞書も認めるだろうという表現です。

以前にここに書いたことも多く含まれていますが、今回はとりわけ、老人の愚痴みたいなものではなく、楽しい蘊蓄、愉快な読み物になっていれば幸いです。


語彙篇

立ち居振る舞い ⇒ 立ち振る舞い

元々は「居」があったのですが、最近はそれを落とす人がとても増えています。プロの文筆家でもそんな風に書く人は珍しくありません。

この「居る」は「8時ごろまでならここに居ます」とか「居留守を使う」とかの「居」ではなく、古語の「居る」で、その意味するところは現代語の「居る」とは違って「座る」です。

つまり「立ち居振る舞い」というのは「立つ」「座る」「振る舞う」の三点セットの表現だったのです。立っているところ、座っているところ、動いているところを網羅して全ての挙動を総合的に表しているわけです。

逆に言うと、「立つ」があるのにその対義語「座る」をすっ飛ばしてしまうのは変な感じなのです。

でも、「居る = 座る」ということを知らなかったら、こんなところに突然「い(ゐ)」が入ってくるのは多分気持ち悪いから、それで落としてしまうんでしょうね。

でも、恐らく既に多くの辞書がこの表現を認め始めているのではないかと思います。

不言実行 ⇒ 有言実行

最近は不言実行という表現にめったにお目にかかりませんが、これが元々の四字熟語だったのです。それを誰かがもじって有言実行という四字熟語が生まれました。

ちょうど巨人の中畑選手が「絶好調」をもじって「絶不調」と言い始めて、いつの間にかこの表現が定着したみたいに(例が古すぎるかw)。

あるいは、これには諸説あるのですが、元々は「男心と秋の空」だったのがいつの間にか「女心と秋の空」と言われるようになったとか…。

これらは要するに人生観や価値観、世相などの変化に伴う造語なんですよね。

昔は、決して口には出さず陰でコツコツと努力を積んで最後にはきっちり成し遂げるのがカッコ良かったのです。

例えば昔の東映映画の高倉健さんみたいな(これも例が古いですが、古い時代の価値観なので仕方がないです)、そもそも寡黙で、「できそうか」と訊かれても決して景気の良い答えは返さず、あくまで謙虚なことしか言わず、それでもきっちり成し遂げてしまう、みたいな感じ。

それがいつしか、派手に「優勝します」などと宣言してほんとに優勝してしまう、みたいなことのほうがカッコ良くなっちゃったんですよね。

今は両方を載せているか、「有言実行」だけを載せて、その語釈で語源として「不言実行」に触れているか、そんな辞書が多いのではないでしょうか。

二人ふたり様 ⇒ 2名様

僕が働いていた放送局には、構成台本に「抽選で◯名様にプレゼントします」と書いてあったら必ず「抽選で◯人の皆様にプレゼントします」と訂正するプロデューサーがいました。

そう、人数を数える時に「◯名」と言うのは決して敬語(尊敬語)ではなかったのです。むしろ「鈴木上等兵以下3名、ただいま到着いたしました」などとへりくだる時に使うほうが多かった言葉です。

「◯名」の使い方については、

  1. 改まったとき、格式張ったときに使う表現

  2. 定数や定員が決まっているときに使う表現

  3. 一人ひとりが特定できるときに使う表現

など諸説あります。

どちらにしてもこれは一般的に敬語(尊敬語、謙譲語、丁寧ていねい語)と言われるものとは少し違います。しかし、「◯人」より「◯名」のほうが丁寧であるとしている辞書は既に存在します。

そのうちこれは完全な丁寧語になるのでしょうね。

現時点の僕の感覚としては「2名様」より「お二人様」のほうがはるかに丁寧だと思うのですが…。

読み方篇

逆手(ぎゃくて)に取る ⇒ 逆手(さかて)に取る

「さかて」という読みももちろんあります。

それは「順手(じゅんて)」に対することばで、例えば鉄棒を、手の甲ではなく手の平を自分に向けて握る持ち方です。あるいは薬缶やかんの取っ手などを持つ時や腰の刀を抜くときに、手の甲ではなく手の平を上に向けて握る持ち方です。

でも、それは単に持ち方の形であり、それを「取る」と言われてもなんだかしっくり来ません。

実は「逆手に取る」というのは元々は柔道から来たことばだそうで、「逆手(ぎゃくて)」というのは「相手の関節を逆に曲げる技」なのだそうです。

そう言われれば、確かに「逆手に取る」という表現がしっくりニュアンスを伝えて来るでしょ?

でも、今ではかなり多くの人が「さかてに取る」と言います。今では多くの辞書がその読み方を認めているんじゃないでしょうか。

他人事(ひとごと) ⇒ 他人事(たにんごと)

もうこれは止められませんね。今では「ひとごと」と読んでいる人のほうが間違いなく少ないでしょう。

「ひと」を時々「他人」と書くのは「人」だと「人間」の意味になってしまうからです。「ひとごと」と言う時の「ひと」は「他人」の意味なので「ひとごと」を「他人事」と書くのです。「他人ひとの振り見てが振り直せ」なんて書き方と同じですね。

それに「人事」と書いてしまうと間違いなく「じんじ」と読まれてしまうので、区別するためにも「他人事」と書くわけです。

そもそも「他人(ひと)」と「我(われ)」は対になっている表現で、僕らの世代は「ひとごと」に対する自分の関心事については「こと」という表現を使っていました。そう、「我が振り」と同じです。

ところが「他人」を「たにん」と読んだ場合、それに対するのは「自分」なので「自分事(じぶんごと)」という表現が出てきて、今では完全にそっちのほうが優勢ですよね。

ちなみに、「関心事」を「かんしんごと」と読む人も増えていますね。これは本来「かんしんじ」です。

意味篇

すべからく(= 必ず ⇒ すべて)

音が似ているからでしょうね。「すべからく」を「すべて」の意味で使う人がとても多いです。

でも「すべて」は「全て」、「すべからく」は「須らく」と漢字が違います。「須」は「必須」の「須」で「必ず」という意味です。

漢文ではこの漢字は所謂いわゆる「再読文字」で「すべからく~すべし」と2度読みます。「必ず~しなさい」という意味です。用法としても「すべからく」は必ず「べし」とセットで使います。

なんとなく音がカッコいいので、カッコつけるために使っている人もいるのかもしれませんが、「すべて」と言いたいのであれば、そのまま「すべて」で良いのではないでしょうか。

しかし、これだけ多くの人がそんな風に使っているということは、いずれ辞書もその意味と用法を認める日が来るのでしょうね。

あざとい(= あさはかな/あくどい ⇒ わざとらしい)

辞書を引いてみてください(できれば規範性の高い辞書が良いです)。「あざとい」を引くと「あさはかな」とか「あくどい」という語釈が出てくるはずです。

でも、今ほとんどの人が「わざとらしい」という意味で使っていませんか? とりわけ「気を惹くために可愛らしさをアピールする」みたいなニュアンスで。

実は僕もずっとそんな意味で使っていたのですが、ある日たまたま辞書を引いてみて愕然としたのです。結構ネガティブな表現じゃないですか。「あざとかわいい」などという表現が成り立たないくらい。

辞書によっては「どぎつい」とか「小利口な」という語釈を載せているものもあると思います。この「小利口な」という辺りから意味が変遷してきたのでしょうか?

「わざとらしく(自分の可愛さなどを)アピールする」みたいな語釈を載せている辞書はまだあまりないみたいですが、これだけこの意味で使われ始めると、もう時間の問題だと思います。

破天荒(= 誰もやったことがない、前人未到の ⇒ 型破りで豪快な)

これも辞書を引いてみてください。「破天荒な大事業」というのが正しい用法で、これは人の性格を表すことばではありません。多分「破」や「荒」という漢字の持つイメージに引っ張られるのでしょうね。

「天荒」というのは「荒れた土地」「未開の地」という意味で、元々はそんな荒れ果てた田舎から初めて科挙の試験に合格者が出たことから来ているのだそうです。「破」は「前例を破る」の意味です。

でも、はっきり言って、これをこの本来の意味で使っている例をほとんど見たことがありません。

いずれ辞書も追随するしかなくなるのでしょうね。

はんなりとした(= 派手だけれど上品な ⇒ 身のこなしがゆっくりとした/どことなく上品な)

「はんなり」の語源は「華なり」であり、本来は華やかさを表す表現です。ただし、「ただ華やかなのではなく、派手で目を惹きはするけれど、決して下品にはなっていない」という褒め言葉です。

華やかであっても俗っぽいものや、上品であっても地味なものには使わない表現なのです。

京都弁から出てきた言葉ですが、現在京都在住の人も含めて、どれだけの人がこの言葉を本来の意味で使っているのか疑問です。多分「はんなり」という音の柔らかさに引っ張られるのだと思います。

これもそのうち辞書の語釈が変わってくるのでしょうか?

用法篇

高校卒業以来 ⇒ 高校卒業ぶり

今では「以来」と「ぶり」がほとんど同じ意味で使われることが多く、というか何でもかんでも「ぶり」で済ませる人が多くなっていますが、僕らの世代は「以来」と「ぶり」は明確に使い分けてきました。つまり

  • 過去の時点 +「以来」

  • 期間の長さ +「ぶり」

です。用例としては「高校卒業以来15年ぶり」などとなります。これ、最近の言い方ではどう言うんでしょうね? 「高校卒業ぶり、15年ぶり」でしょうか?

ちなみに、「高校卒業ぶり」よりも「高校ぶり」という表現のほうがよく使われるのかもしれませんが、「以来」を使う場合はその前に過去の特定の時点を示す必要があるので、「高校以来」とは言わず「高校卒業以来」とか「高校時代に一回やって以来」などと言うのが従来の正しい表現になります。

ややこしいですか?

オールマイティな表現があるほうが楽ですから、何かひとつのことばをオールマイティ化してしまうという動きはよく見られます。これはそんな例でしょうね。

この用法もいつの日か辞書に掲載されるのでしょうね。

表記篇

丼 ⇒ 丼ぶり

右の例は私には「どんぶりぶり」としか読めません。丼という漢字の音読みは「セイ」であって「ドン」ではなく、訓読みは「どんぶり」ですので、「ぶり」を送る必要がないのです。

「天丼」と書いて「てんどん」と読むからやっぱり「丼」は「どん」としか読まないんじゃないの?と言うかも知れませんが、それは「てんぷらどんぶり」を略して「てんどん」と言っているだけのことです。

「うなぎどんぶり」を略して「うなどん」と言います。「鰻丼」と書いてあったらついつい「うなどん」と読んでしまいますが、「鰻」の訓読みは「うなぎ」であって、「うな」という読み方はありません。

「木村拓哉」を「キムタク」、「モーニング娘。」を「モームス」と略しますが、「村」に「ム」という読みはなく、「娘」に「ムス」という読みがないのと同じです。

そして、「鰻」に「うな」の読みがないのと同じように、「丼」に「どん」という読みはないのです。

僕らの世代は「なんとかどんぶり」を「なんとかどん」と略すことはあっても「どんぶりもの」を「どんもの」と略すことは決してありませんでした。

でも、最近の人はよく「どんもの」って言いますよね。多分略しているという意識はなくて、「丼」という漢字は「どん」と読む(「どん」としか読めない)のだと思いこんでいるからだと思います。

最近では店の看板やお品書きに「丼ぶり」なんて書いているところも決して珍しくなくなってきました。

多分新しい漢和辞典には「丼」に「どん」という読み(これが音読みなのか訓読みなのか分かりませんが)を載せているものが出始めているのではないでしょうか。

■ ◇ ■ ◇ ■

以上、長々と最後までお読みいただき、ありがとうございました。

いずれも「それは間違っている!」と糾弾するのではなく、「ことばって変わって行くもんだね」という意味で書いたつもりです。

どんなことばを使う人に対しても、すべからく寛容であるべきだと僕は思っています。

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山本英治 AKA ほなね爺
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