『映画を早送りで観る人たち』を読んで二重の意味で呆然と立ち尽くす
『映画を早送りで観る人たち』(稲田豊史・著)を読んだ。
僕は著者が2021年に同じタイトルでビジネスサイトに書いた9本の記事を全部読んでいるし、同年 7/29 にメディア環境研究所のセミナー「メ環研の部屋」で、本書にもたびたび登場する森永真弓さんと著者が対談したのも聴講している。
だから、この著者が書いていることはすでに大体知っており、せっかくこの本を買って読んでみたものの最初のほうは前に読んだり聞いたりしたことばかりで、あまり新味がなかった。
しかし、著者はこれを書籍化するにあたって大々的に追加のリサーチやインタビューを重ねており、彼が以前書いたり喋ったりしたことを補強するそれらの要素が次々と出てくるに及んで、全く目が離せなくなった。
彼が最初にネット上に書いた時に、僕が反応したのは「早送りで観る」ことよりも、「ネタバレ記事を読んでから観に行く」ということのほうだった。彼らはドキドキ・ハラハラするのが嫌だから、先にストーリーを結末までしっかり調べて、それを知った上で観に行くという。
これは僕には信じられない暴挙だった。僕はそもそもハラハラ・ドキドキするために観ているような向きがある。先に全部分かってから観て何が面白いのか?と唖然とした。
自分が不快に思うようなシーン(例えば暴力など)は一瞬たりとも観たくないので、ネタバレ記事や早送りでそういうシーンがないことを確かめてから観るという。
それって、何のために観ているのか、僕にはさっぱり理解できない。
著者は早送りに関してこんな風にも書いている:
うーむ、これもよく分からない、と言うか、僕とはまるっきり違う。僕は誰かに勝ちたいという思いはない。僕はただみんなと違っていたいだけなのだ。
早送りでドラマを観ても感動できないでしょう?という問いに対して、「感動は求めていません」と真顔で答える若者がいるということにも衝撃を受けた。
彼はこう書いている:
そして、題名に関してはこんな記述もある:
うーむ、僕は全部読み終わってから、「なるほどこのタイトルはそういう意味だったのか!」と思わせるようなタイトルが大好きだ。
そして、最近全てを台詞で説明するような作品が増えているとも書いてある。これもびっくりで、僕は不自然な台詞で観客に状況を説明するドラマが大っ嫌いである。観ていてむかっ腹が立つ。
もう、呆れてものが言えなくなってくる。
でも、だからと言って、「最近の若い奴らは本当に同調圧力ばかり強くて情けない。そんなにまでして友だちの話題について行くことが必要なのか?」などと怒るのが正しいかと言うとそうではないのだ。
著者もこう書いている:
そう、この本を読んで分かったことがある。
僕の場合はとにかく多数派に属さずに権威に楯突いていたいという思いが小さい頃からずっと強かったのだが、それはあの時代にははっきりとした多数派や権威、つまり、「巨人・大鵬・卵焼き」とか、クラス中の誰もが観ている人気番組とか、そういうものが厳然とあったからそういう態度が取れたのである。
ところが今はそういうコンテンツがなくなってしまった。趣味も趣向もあまりに多様化してしまって“普通”がなくなってしまった。
そんな中で彼らは、一方では友だちとの良好なコミュニケーションを図らなければならないし、他方では「個性的であれ」という教育を受けて“オンリーワン”を目指さなければならない。
そりゃ、困るだろう。そうなると、ともかく自分が楽しむことよりも、情報を収集することのほうが大事になってきても仕方がない。
だが、これは単に世代論で片付けられる問題ではないのである。若い世代がだらしないのではなく、我々も含めてみんなが作ってきたこの世界(とりわけインターネット環境)がそういう観方を強いているのである。
僕はここまで読むに至って、再度愕然とした。
今、考えるべきことが2つある。
ひとつは、最近こういう観方をする人が増えている中で、僕らメディアはもう今まで通りの作り方をしていては確実に見られなくなる。なんとか彼らに観てもらえる作り方を工夫しなければいけないということ。
もうひとつは、しかし、そんな風に彼らに阿って、彼らの見方に沿うような作品を作ることが果たして正しいことなのか? 日本は、世の中は、将来はそれで良いのか?ということである。
僕らはこの2つの間で股裂き状態となる。頭が痛い。強烈に頭が痛い。
(以上は、僕が自分のブログに上げたもの、及びシミルボンに投稿した文章と一言一句同じものです)
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