反語表現を考える
反故になった反語訳
「反語」って学校で習ったじゃないですか。そう、「果たして何々だろうか? いや、そんなことはない」とか「誰が何々するだろうか? いや、誰もそんなことはしない」なんてやつ。
不思議なもんで、古文や漢文に出てきた原文のほうはあまり憶えていなくて、その現代語訳が頭にこびりついています。その理由は単純で、その訳文が日本語としてなんかしっくり来ないからです。
もちろん現代語としての話です。今の日本で話す日本語として、古文や漢文の授業で習った反語の訳はどうも不自然なのです。そう、まさに、「誰がそんな日本語を話すだろうか? いや、誰も話さない」って感じ。
にしても、
にしても、今の時代ではあまりにリズムが悠長だし、表現がまどろっこしいんですよね。
ならば、どう訳せば良いか? ──そのためには、現代語における反語表現を探せば良いのではないでしょうか。
まず、古い日本語がそのまま生き残っている例として、「何を隠そう」というのがあります。
などと、今も昔の形のまま使っています。じゃあ、これを現代語っぽくするにはどうすれば良いでしょうか? どう考えても、
ではないでしょう。例えば
みたいな感じでしょうか。わざわざ「隠すほどのことではない」と添えるところが照れ隠し、あるいは、照れ隠しに見せかけた自慢話なのです(笑)
これなら西行の歌に適用することができます。
よく似た例で、「何が悲しくて」というのもあります。
これも「何が悲しいだろうか、いや、何も悲しくない」とやっていたのでは、「お前は一体何が言いたいんじゃ!?」とツッコまれそうです。
この文章では間に挿入されている「何が悲しくて」が「40歳にもなって、そんな扱いを受けなきゃならん」全体に掛かる形で修辞疑問文を構成しています。意味するところは「何も悲しいことなんかないんだから、そんな扱いを受けることはない」ってな感じなんですかね。
「悲しい」という表現にあまり囚われすぎると訳しにくくなるので、ばっさり意訳するなら、
とでも訳してみますか。あるいは、「悲しい」を活かすのであれば、
うーん、これではちょっとインパクト弱いかな。
いずれにしても、以上は文語の形で残っている反語表現ですが、現代口語の反語表現というのも確かにあります。
すみません、急に関西弁になっちゃって(笑) このほうが自分には馴染みがあったもんで。
これを無理やり教科書方式で訳すと
と、これまためちゃくちゃ面妖な文章になってしまいます。
要するに我々が教科書で習ってきた反語の現代語訳はくどいのです。一旦文章を切って、そこから「いや」などと立て直してくる、そんな悠長な表現はどう考えても現代のスピード社会に合わないのです。
では、最初に挙げた西行法師の短歌と、司馬遷の『史記』の「陳渉世家」からの引用文を現代口語風の訳文にすると、
くらいにすると、現代の日本でおかしくない表現になるのではないでしょうか。
私は教科書でも是非こういう訳を教えてほしいと思うのです。訳というのは単語レベルではなく文章全体の文意を置き換える作業ですので、このくらいの意訳をやってみせてこその教科書だと思います。
ところで、現代日本語に於いても新しい反語が生まれていないわけではありません。
もっと広がるかと思ったら、いつのまにか最近では誰も言わなくなりましたが、それは「誰得」と「誰ウマ」です。いずれも元々は2ちゃんから出てきた言葉かと思います。どちらも反語である上に略語であるところが極めて現代風です。
「誰得」は「(そんなことやって)誰が得するの?」(いや、誰も得しない──って、もういいか)。誰の得にもならないことを必死で言ってたりする奴に「誰得?」。
それから「誰ウマ」は「誰が巧いことを言えといったか?」(いや、誰も言ってない──って、しつこいかw でも、「誰も頼んでないのに巧いこと言うじゃないか」というニュアンスは解ってほしいです)。スレッドの途中で突然なんだか巧い表現でまとめてしまうような奴が出てきたときにぴったりの表現です。
こういうのを見ていると、日本語の伝統の中で反語は必ずしも死なないのだということが解ります。死んでほしいのは「いや、ナントカカントカ」という変な訳語だけです。
それにしても一体誰がこんな変な訳を始めたのでしょうか?(いや、誰も始めていない──って、違う違う、これは反語ではなくて単純な疑問文です)。
生き残る文語/反語
結局のところ、昔使われていた反語は「~するだろうか(いや、そんなことはない)」と訳すのではなく、ケース・バイ・ケースで「~なわけないだろう」とか「別に~するわけじゃないんですけど」などと訳すと現代の気分に合うのではないでしょうか。
しかし、とは言え、反語表現自体は不思議に消えてなくなりません。これはこれで便利だからなのでしょうね。
そんな現代に残る(文語的)反語表現を蒐集してみました。
特にいかつい、と言うか、大仰と言うか、しかつめらしいものは、
などという文語丸出しの表現です。
若い人は「そんなもの使うのか!?」と言うでしょうが、これはこれで“威嚇射撃用”と言うか、こけおどしに使うと結構重宝するのです。
私も時々『論語』から引用して、「これをも忍ぶべくんば、いずれをか忍ぶべからざらん」とか、「ああ燕雀いずくんぞ鴻鵠の志を知らんや」(これは上でも引用しましたが、『史記』ですね)などと吐き捨てて怒ってみせると、言われたほうは意味も半分くらいしか解らないのに、なんだか威圧された気分になったりします。
もう少し柔らかい表現になると、
などもギリギリのところで現代にしぶとく生き残っている反語っぽい表現の例です。やっぱり、これらが生き残っているということは、ある程度使い勝手が良いということなのではないでしょうか。
少し固くはなってしまいますが、これらの慣用句によって、表現の途中から居住まいを正したような効果が出たりするのです。
そういう意味では、反語ではありませんが、
などという文語の熟語も、同じようにまだ死にきれていない表現だと思います。
え?全部堅すぎる?
では、もう少し肩の力を抜いて当たり前に使っている文語表現を挙げましょう。例えば、最近若い人たちが、私たちの世代からしたら気持ち悪くて仕方がない平板なイントネーションで言う
はい、引用の格助詞「と」+他と区別する意味の係助詞「は」+動詞「言う」の已然形です。「とは言えども」と同じ意味です。
あるいは、
現代語に直訳すれば「悪くない」。いや、「悪くない」では何のことだか分かりません。「悪気はない」「悪く思わないで」「悪気はないので悪く思わないで」──あれ?重複している上にループしてる感じですが、でもそんな使い方してるでしょ?
反語というもの、あるいは反語的なロジックやレトリックは、他人を説得する上で、きっと今も有用なのだと思います。
さて、この先、果たして反語はなくなるでしょうか? ──んなわけないでしょう(笑)
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
もうちょっと固い話になってしまいますが、こんなことも書いています。