好きになれない過去よりも、好きになりたい未来を選ぶ
先日、
ってか、さっき
ルームシェア中の我が家にて
ほんの微々たるトラブルが発生した。
尋常じゃない粘りをみせた今年の夏がやっと終わり
1年の中でも数日しか感じられない快適な日常が訪れ始めた。
(どうせすぐ終わるんだろ?)
今朝も、とてつもなくいい天気だ。
いい天気 × リモートワーク といえば
言わずもがな、洗濯物だ。
溜まった衣類を洗濯機にぶち込み
もらいもののティーを飲みながらニュースをチェック
洗濯が終わるのを待つ。
住人のカルチャーに似たのか
やかましい音をたてない我が家の洗濯機が控えめに終わりを知らせ、
さあ干そうかと押し入れを開けたそのとき
「あれ、、ハンガーすくねっ」
(私が実家から持参した)共用のはずのハンガーが明らかに減っている。
すぐさま、ルームメイトにchatした。
ここで、ふと
自分にとって、そこそこな気付きをもらった。
まさか、こんなことが自己理解を深めるきっかけになるとはね
責任所在の特定に関心がない
先日(今度こそ、ほんとに"先日")
友人との会話の中で
"過去の体験"とそれらの"解釈"について、話をする機会があった。
話の発端は、私が強く大切にしたい価値観について、だった。
私は、"いい状態"でいることを
強く、強く、望んでいる。
心がけている。実践を試みている。
定義については、過去のnoteにもまとめたかな
まとめてないかも、まぁまたタイミングで共有するね
その友人から「Youからしか"いい状態"ってフレーズ聞いたことないんだけどw」と言われるくらい、私は日常から多用しまくっている。
なぜ"いい状態"でいたいか、は
やはり、過去の体験に紐づいていた。
家族や友人をはじめとする、大切な人たちの
残念な"終わり方"に触れる機会が
他の人よりも、ちょっとだけ多かった。
そして、そういった終わりを迎えた当事者たちは
きっと、苦しみながら
仕方なく終える選択肢しか見出せなかったんだと思う。
そういったいくつかの原体験を踏まえ、私は
責任の所在を、(自分も含めた)特定の誰かに
一見正しくても、押し付けるような行為は
あまりいい結果を生まない(個人的に好きな世界観じゃない)と考えるようになった。
世間でも、会社でも、家族でも
どんな人間関係であっても
日常で多発しているんじゃないかな
責任所在を特定の誰かに押し付けた後、
多くの場合は、その特定の誰かである当事者に
なぜそうしたか?今後そうならないようにはどうするか?など
背景を説明させ、改善させようとする。
(ここ、ちょっと私のバイアス強めだけど)
大丈夫?
それでひとりの人生は終わるよ?
状態や状況について、"自己"とは切り分け、
正しく整理し、処理できる人はそう多くない。
自己肯定することが、社会から拒まれていると錯覚してしまう。
絶望してしまう。
自分自身もそう感じて苦しんだ時期があったから、
未来で、苦しみや孤独を感じながら終わるしかない人を
できるだけ減らしたい。
強い素懐である。
ちょっと残念な副作用
たぶん、先述の信条もあって
私自身、過去の苦しんだ時期を乗り越えた後、特に
責任所在の特定と、事象の掘り下げ、分析をしないようになった。
つまり、過去を振り返る機会が圧倒的に少なくなった。
代わりに、未来で同じようなことが起こらないように
周囲の空間や環境、状況をデザインするようになった。
例えば、冒頭のハンガー減少事件については
仮に、持参した共用ハンガーが
何らかの要因で減少することが本当に嫌なのであれば、
ちょっとした優しさで共用にせず、
専用にして、私の部屋で保管すればいい。
(まぁそもそもそんなに嫌じゃないから今回は何も対策しないけどね)
何が言いたいかというと
過去(起きたこと)にほとんど意識を向けず、常にいい未来に向けてデザインしようとするため
他の人よりも、過去の記憶との接点が少ない。
忘れてしまうことが多い。
これは楽しかった記憶も、苦しかった記憶も。
故に、
過去、自分が体験したことも
当時の熱量で思い出すことができない。
これはちょっと
いや、結構悲しい。
自分なりの処世術だったのかな
だから、私は
記憶なんか頼りにせず
今この瞬間を、強く感じることに一生懸命になろうとしている。
(なれないことが多いけどね😇)
まあ、総じて"問題"はない!
こんなことも、書いてたね