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スロバキアの人形劇祭をふりかえる|バーブカルスカ・ビストリツァ🇸🇰
1月23日の夜、人形玩具学会のオンライン談話会で、スロバキアの国際人形劇祭「バーブカルスカ・ビストリツァ(Bábkarská Bystrica)」をふりかえる企画の後編を開催します。前編では主題の政治性/社会性にフォーカスした若干かためな話をしましたが、今回はシンプルに演出・美術、パフォーマンスがよかった作品に注目。ざっくり4つの視点からそれぞれ2作品ずつ、合計8作品を取り上げます。
前回の内容はこちらから:
なお、今回はトレーラーがない作品がわりと多いです。映像ないとイメージ湧かないかもしれないけど、写真が喚起する想像力に身を委ねてお付き合いください。ちなみにこの記事、前回の記事よりも長いです……。
現代の人形劇とダンス
日本でも俳優身体を意識した人形遣いが舞踏の稽古に向かったように、踊る身体があれば、自らの身体をモノとの関係と運動において、芸術的なやり方で定位できるようになる。こうした傾向の現代人形劇とコンテンポラリー・ダンスの境界設定(とくに、ダンス作品を人形劇的だと形容していいかどうか)は悩ましいが、オブジェクトやマテリアルと踊ることで何かを表現するというアプローチは、いくらかの部分で現代人形劇と通ずる実践だろう。
Andrej Lyga "The Fairytale for the Brave" 🇨🇿
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スロバキアの民俗学者 Pavol Dobšinský の集めた民話が元になった、完全なノンバーバル作品。スロバキアのフェスには呼ばれるべくして呼ばれたようなもの。いちおう子ども向けの作品だというが、作品そのものは若干怖い。実際 Dobšinský が集めた民話は、本来グリム童話が残酷であるように、エロティシズムやグロテスクさのある物語だったという(子ども向けの童話集として売る段階ではそういった要素を捨象したらしいが)。Lyga 自身も、こうした Dobšinský の民話がもつ生々しさや荒々しさ、残酷さに惹かれて、本作を作ったという。この意識は、彼自身のコメントによく現れている。
子どもたちに、ただ素晴らしくて、色鮮やかで、陽気なだけではない物事を伝えることが、ひじょうに重要であると考えています。とりわけ今日の困難な時代において、私たちは子どもたちに隠し立てすることなく、正直に向き合えなければなりません。私たちは、執着や悲しみ、愛する人を失うといったことから、目を背けてはいけません。
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暗い森の中を一人の男が歩いている。彼の頭にはヘッドライトがついていて、明かりはほとんどこれだけしかない。男は怯えるような足取りでゆっくりと森を歩く。動物や精霊が襲ってくるからだ。暗闇の先、明るくひらけた場所に出た男は、叫び声をあげる髑髏を見つけ、逡巡しつつも手に取ってしまう。すると、骸骨は自らの意思をもって踊り出し、ついには男の顔面にくっついてしまう。呪いのマスクに身体を乗っ取られてしまった男は、なんとか主導権を取り戻し、仮面を引き剥がして地面に叩きつける。粘土で作られた髑髏は無惨にグチャリと潰れるが、死んだわけではなく、手に取った男の身体を再び支配する。男が踊り、抵抗するなかで、仮面は人間らしい姿から超自然的な怪物にまでどんどん姿を変えていき、最終的には円空仏のような幼子になる。男はバケツの前に幼子を置き、花をたむけて森を後にする。
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とくに終盤の仮面との駆け引きは、本作の副題的なスローガンである「勇気とは、恐怖に抵抗することであり、恐怖を克服することであって、恐怖を抱かないことではない」というマーク・トウェインの格言をよく表している。恐れを知らないことが勇気ではなく、恐れを知ったうえで、それと折り合いをつけることが勇気だというわけだ。悲しみにせよ、愛する人との別れにせよ同じことで、苦難に直面してもなお、再び歩み出す勇気を子どもたちに与えることが Lyga の目的だったのだろう。最終シーンで、森を去っていく男の背中からひょっこり覗く小さな髑髏は、苦しみを完全に捨て去って綺麗さっぱり忘れるのではなく「ちょっとでも小さくする」という、生き方の手解きだったのではないか。
ところで、同じ「粘土のマスク」を使っていたキーウの学生たちと比べて、彼のパフォーマンスでは格段に素材の特性──つまり粘土の可変性が活かされていた。素材の特性をどれだけ作品に組み込めるかは、マテリアル・パフォーマンスだけにかぎらず広く重要なことで、技術の差もはっきり見えるポイントだと思う。この点が雑だと、やっぱり「現代人形劇」としても物足りない気持ちになってしまう。
ちなみに Lyga は、HAMU在学中に学友と組んだグループ My kluci, co spolu chodíme(Us Boys Who Go Out Together)で知られていて、Damúza や、チェコ&スロバキア版ゴッド・タレントで第1回グランプリを受賞したユニットから生まれた Losers Cirque Company のメンバーでもあるそう。複数人でのパフォーマンスが中心だった彼が、初めて取り組んだソロ作品が本作。なかなか良い評価を得ており、いくつかアワードも受賞している。
Independent Theatre Group ODIVO "VNORENÁ" 🇸🇰
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ミハイル・スヴィローニの出演がキャンセルになったことを受け、急遽代打で組み込まれた、70分に及ぶコンテンポラリー・ダンス作品。コンセプチュアルで、初見では正直どういうパフォーマンスなのか理解が追いつかなかったのだが、芸術的に構成された舞台環境で、アンビエント〜ノイズ系のライブミュージックに乗せて、卓越した身体パフォーマンスを見せるダンサーが強く印象に残っている。音楽のおかげで独特のトランス感があり、Lygaの作品と合わせてコンテンポラリーダンスに興味もつキッカケになった。
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舞台上には、水を張った5つの浴槽が置かれ、うち3つはスタンドライトで照らされている。舞台の端にはプールの監視員──ライフ・セーバーが座るような高い椅子があり、パフォーマーはそれに腰掛けて舞台を見下ろしている。息を整えたパフォーマーは、ライフ・セーバーの椅子から降りて、ダンスを始める。ひとしきり踊っては、椅子に戻って息を整える、というくだりを三周するなかで、歌や「語り」が再生される。三度のダンスはそれぞれ踊りのニュアンスが変わっていて、はじめは這うように浴槽を水平方向に横切るやや抑制的な動きが中心で、ダンサーも水に触れないようにしていたものが、二回目からは身体を起こして開放的な動きになり、水との関わりが直接的(肉体的)に増えていく。
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後になって調べたところ、これは日常的な家族の介護──「ケア」に関する作品で、途中で流れていたのはケアラーたちの「語り」であることがわかった。日常的に科された介護という責務に、私たちはどれだけ耐えることができるのだろうか。どれだけ喜ばしい瞬間があって、どれだけ苦しい瞬間があるのだろうか。途中で流れる「語り」には、ケアの場面だけでなく、家族を老人ホームに入れた日、介護していた家族が亡くなった日の語りも含まれている。どれも切実な生の声で、前回紹介したアレクシエーヴィチの著作を題材とした作品たちと同様に、このパフォーマンスも多声的だ。そのうえで、本作は再演式のパフォーマンスとして、役者を変えて繰り返し上演することによって異なる物語性を帯びるように制作されたという。実際、一定の役者が演じ続けると、声の代弁=表象も固定化されてしまう恐れがある(流れる「語り」が更新されない以上は固定化されていると言えなくもないが)。
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本作では、「ケア」にまつわる "patience" というイメージが、呼吸器具の助けなしにどれだけ長く、深く潜っていけるかを競う「フリーダイビング」に重ねられている。つまりライフ・セーバーの椅子は飛び込み台でもあり、踊っている間、ダンサーはフリーダイビングと同様に、助けなしで、呼吸をとめて水中に潜っているわけだ。この意味で、息を切らして踊り続けるダンサーは(一方が死ぬまで)終わることのないケアのサイクルを表象している。浴槽は、水中のイメージを与えるだけでなく、介護における困難な場面──沐浴と洗浄を象徴してもいる。
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トレーラーはこちら:
https://www.tanecno.sk/wp-content/uploads/2024/08/vnorena_trailer.mp4
「語り」の全文も公開されています:
なお、もともと本作は、スロバキア演劇界で唯一の LGBTI+ Divadlo である Nomantinels Divadlo と、身体性に重点を置いた実験的・作家的ダンスコレクティブ Gaffa 、スロバキアの先進的な芸術のためのプラットフォームである Batyskaf が、人種・指向・性別・経済状況に関係なく、あらゆる人々のための演劇空間としてブラチスラバに設立した P*AKT による GYNOKRITICKÁ PÚŤ プログラムの一環で上演されたもの。このプログラムは、エレイン・ショウォールターのガイノクリティシズム(不当に貶められてきた女性文学の再評価に目をむける批評)から着想されたもので、今回 Iveta が掲げた、忘却されてきた女性の経験や声に光を当てるというフェスの主題とも重なっている。実際に、このフェスティバルで上演された "MASARYK(OVÁ)" も GYNOKRITICKÁ PÚŤ のプログラムの一つだった。
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巨大装置とオブジェクト・シアター
巨大な舞台装置を使ったオブジェクト・シアターを二作品紹介。単純に目を惹くだけでなく、子どもたちにもかなりウケていた。どちらもノンバーバル(あるいは意味をもたない言語を使う)作品。
Florschütz & Döhnert "Electric Shadows" 🇩🇪
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ベルリンの人形劇グループによる作品で、デカい物干し竿みたいな機械を使ったオブジェクト・シアター。空間系のエフェクトがかかったギターを中心とするライブミュージックつき。回転する物干し竿にいろんなモノが引っ付いていく。この機械があまり思い通りには動かず、そのうち俳優も服を巻き込まれて吊るされてしまう。とはいえ「機械と人間の関係」という種の込み入った議論まで踏み込みはしないので見やすい作品。
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本作のもう一つの重要な構成要素は、タイトルにあるとおり「影」。本作はオブジェクト・シアターであると同時に影絵劇でもある。ローリング物干し竿が作品のユーモアを担当しているとすれば、影は美的要素と幻想性を支えている。影だと思っていたものが、実はプロジェクターで投影された映像だったり、逆に実体のあるオブジェクトだったりする。前者のほうはプラハで見たFeketeの作品とも同じなのだが、後者のほうで「影の椅子がベリっと剥がされる」シーンには驚かされた。僕は基本的に、物質としての実体と質感がある「モノ」が好きな人間なので、正直なところ影絵にはさほど関心をもってこなかったのだが、逆に「実体と質感がない」とか「写像である」とかいったステレオタイプな認識を裏切ることで、影絵人形劇にも魔術的な世界が生まれるのか……と思い知らされた。
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ちなみに、この作品をどういうジャンルとしてくくるのか、については終演後 Döhnert に直接聞いてみた。彼曰く、やはりこれは「オブジェクト・シアター」だという。実際、日常的なオブジェクト(いわゆる everyday objects というやつ)に動き(回転)と視覚的効果(影)を与えることで、それらをキャラクター化することなしに「語らせる」という点で、オブジェクト・シアターらしい作品だったと思う。個人的に、今回のフェスではかなり好きな作品だった。
トレーラーのリンク:https://vimeo.com/779581257?share=copy
Bábkové divadlo v Košiciach "NIE! Manifest vzdorovitého dieťaťa" 🇸🇰
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KALD(Katedry alternativního a loutkového divadla)DAMU出身で、現在同科の人形劇部門部長を務めている Braňo Mazúch が手がけた「オブジェクト・エッセイ」。彼は Lampion Theatre(→後述)にいた時期からインタラクティブな作品を作っていたようで、今作でも観客の子どもたちをストーリー展開のなかに積極的に組み込んでいた。
タイトルは「NO!」という意味で、「反抗期の子どものマニフェスト」という副題が示すとおり、子どもの成長において重要かつ不可欠な期間であり、育てる側にとっては受難の時期でもある《反抗期》が主題の作品。子どもの反抗期が明確に現れる場面──食事、着替え、ショッピング、お片付け、歯磨き、髪のブラッシングなどを描いたオブジェクト・シアター。
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舞台中央には、子どもの知育玩具を思わせる円錐形の巨大オブジェが置かれている。この装置、実はロボットで、一緒に舞台に置かれた奇妙なヘッドギアを被った人間の思考をスキャンすることで動き出す仕組みになっている。超自我を読みとって反抗期を描く感じで面白い。役者だけでなく、挙手した観客席の子どもたちもヘッドギアを被ることができるようになっていて、みんなものすごい勢いでアピールしていた。ヘッドギアで読み取った思考を反映してマシンが動くことで、反抗期の場面が次々展開していく。ちなみに、この印象的な舞台装置を作った美術家 Olga Ziębińskaも KALD DAMU出身。
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食事を描くシーンでは、小さな列車に乗せられた野菜・果物・お菓子などがレールを走り、無事にどこかの駅まで送られたり、途中で止まってしまったり、脱線して落下してしまったりする。「(栄養的に)食べさせたいものを食べてくれない」というよくある反抗をこうやって描くことができるんだ……と思って感心した。もちろん、装置の見た目どおりちゃんとボールも転がってきて、反抗期云々だけでなく、子どもにとっての遊びと食事の近さや、どちらも同じぐらい重要なことなのだということが可視化されていたと思う。
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他にも、着替えを描いたシーンでは、装置の機能でドレスアップした俳優たちがランウェイみたいに舞台をウォーキングしたり、装置(とその周辺)の一部がインストゥルメントと化して合奏が始まったりと、いろんな遊びに満ちた作品だったのだが、印象に残っているのは後片付けのシーンから。もうぐちゃぐちゃに散らかったステージに「片付けて!」という母親の声が響きわたり、もちろん俳優たちは「イヤ!」(NIE!)と叫ぶのだが、観客席にいる子どもたちに協力を依頼して、ステージを片付けていく。
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髪をとかすシーンも印象に残っている。アナログレコードの目玉を持ち上げ、上部左右に簾をかけることで、装置が頭に変身する。やり方そのものはさほど特殊ではないが、作品全体としてみれば、「思考を読み取るヘッドギアと、それによって動く装置」という比喩的に「子どもの頭(の中)」を連想させる巨大で不可思議なオブジェクトが、本当に「子どもの頭」になっているわけで、いい演出だと思った。最後は俳優たちが寝かしつけられて終了。子どもの楽しい一日を描いた良いオブジェクト・シアターだった。
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残念ながら、トレーラーらしいトレーラー出ていない。フェスのダイジェストムービーに少しだけ映像が出ているので貼っておきます。
手の届く距離にある舞台
舞台と観客の子どもたちとの距離が物理的に近く、とくに子どもが主体的に参加できるようになっていた作品を二つ紹介。
Lampion Theatre "KOMODO!" 🇨🇿
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Petr Sis の絵本をもとにした、ドラゴンが大好きな男の子の物語。息子をコモドドラゴンに会わせてあげようとした両親は、サプライズでインドネシア旅行をプレゼントする。思いのほかリゾート地と化していて観光客でごった返していたバリで遊んだあと、彼はドラゴンに会うためにコモド島へと向かった。果たして本物のドラゴンに出会えるのだろうか? という作品。
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舞台には五角形の不思議な台が置かれていて、内側に人形遣いがいる。子どもたちはその周囲に座るよう促され、目の前で作品を見ることになるが、パフォーマンスを通して子どもたちを作品に参加させるための仕掛けが散りばめらている。たとえば、下の写真は、たしか丸い蓋の下に画材がしまってあるんだよと教えられ、黒い部分に絵を描くように促される場面。
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客席には黒いクッションが配られていて、座布団みたいなものかと思って座っていると、途中で「中開けてみて!」と促される。実はクッションの中にはパフォーマンスの中で使う「貨幣」が3枚入っていて、一人ひとり自分のアバターとしての木製人形(木の板に絵を描いたもの)をもらって、バリのリゾートでいろんなアクティビティを楽しむことができる。アクティビティ1つあたり貨幣1枚必要なので、子どもたちはどうやってお金を使うのか考えながら遊ぶ。下の写真だと、一番手前に気球があって、これは結構みんな並んでいた。その左にはインコとおしゃべりできる店がある。そのほか、映ってはいないけどマッサージ屋(すごい勢いでアバターの木片を叩く)や、サングラス屋(買ったサングラスがアバターに描かれる)をはじめ、いろいろな店舗が軒を連ねる。
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五角形の内側には、流しそうめんのレーンみたいなものがあって、ここには実際に水が流され、コモド島に向かうための航路になる。ここを航行する船には、先の段で一人ひとりに配られたアバターを乗せることができるようになっていて、参加した子どもたちは自分のボートが無事にコモド島へ到着するよう、手で押して助けたり、応援したりする。この時点で、作品の主人公はもはやほとんど子どもたち一人ひとりになっている。インタラクティブであると同時に、冒険に没入する高揚感に満ちた素晴らしい作品。
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日本に戻ったあと、現地で知り合った Loutkář の編集者とやりとりしていた際に、この作品を手がけた Jakub Maksymov はチェコのオブジェクト・シアターを牽引する気鋭のディレクターだと紹介してもらった。実は日本でも、2021年に彼の作品「オオカミの通り道」が上演されている。
このワクワクする舞台美術を作ったのは "NIE!" と同様に Olga Ziębińska で、Maksymov とは他の作品でも協働しているようだった。
フェスのダイジェストでちょっと映ります:
Bratislavské Bábkové Divadlo "Hugo's World" 🇸🇰
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Hugo didn't get lost, Hugo is wandering… Hugoは道に迷ってしまったのではなく、そぞろ歩いている。彼の不思議な冒険を(オブジェクトを手遣いする人形遣いと同じように)手の届くような距離で見てみよう、という作品。いくつか丸型のテーブルが置かれ、観客はその周りに座って鑑賞する。一台ごとに一人担当の人形遣いがついていて、音楽でいうところのカノン的方法で、全部のテーブルで同じパフォーマンスが行われる。
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パフォーマンスをとおして、小さなオブジェクトがたくさん出てくる。それぞれ特別に作られたようなものもあれば、大量生産の日用品もあるし、特定の動物を示した具象的なものもあれば、比喩的なキャラクターも登場する。Hugoの冒険は、たくさんのオブジェクトたちとの出会いによって彩られていて、テーブル上に置かれた円板や、テーブルそのものの仕掛けによって場面が転換する。
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正直、とりたてて素晴らしい演出というわけではないが、おもちゃ箱をひっくり返したようにいろんなオブジェクトが出てきて、それぞれに小さな物語があり、それを子どもたちの目の前で見せる……というスタイルが好印象だった。あとは実際に4歳の子どもが書いたHugoに関する個人的なメモからできた作品という点も面白い。こちらもトレーラーはないので、フェスのダイジェストムービーを貼っておきます:
映像と人形劇の交差
視覚的表現、映像表現をとりいれた作品のうち、印象深かったものを紹介。
BDNR "KAMIL" 🇸🇰
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ある老人が飼っている犬・KAMILについてのお話。正直、自分が犬好きなうえ、なんなら渡航寸前に実家が犬を飼い始めたこともあり、ちょっと贔屓目に見ている節はあるのだが、「あ〜犬ってこういう感じだよね!わかる!」という気持ちになれる作品。内容に関していえば、同じ犬の物語でもマティヤのような深み(と凄み)があるわけではないのだが、犬のKAMILがやたら可愛くて印象に残っている。
飼い主(おじいちゃん)たち人間は、人形ではなくイラストとして映像に投影されていて、舞台上には犬の人形と、それを動かし声を当てる人形遣いだけがいる。犬は内部構造が一部剥き出しになった造形で、足がおそらく木製になっており、歩くとカツカツ音が鳴る。そんなわけで可愛らしく作り上げられてはいないし、遣いようによっちゃ薄気味悪くもなりそうな人形なのだが、俳優(Matúš Hollý)の操演と声当てが上手いので、終始可愛く見える。キーウの学生たちも感激した様子で、終演後、俳優に賞賛を送っていた。
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舞台の端っこのほうにはいくつか街のジオラマが置かれていて、犬が散歩するシーンなどは、ミニチュアバージョンの犬をつかって、このジオラマの中で演じられる。その様子をマイクロカメラが追っかける仕組み。前述の "Invisible Land" にしても、前の記事で紹介した Spitfire Company の作品にしても、小さなオブジェクトの芝居を拡大投影するアプローチはよくあって、こういうミクロ/マクロの視点の切り替えは、ひとつ演出の面白みになるんだろうな〜という感じだった。
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残念ながらトレイラーがないので、Facebookの投稿を貼っておきます:
NA SKOK DO SEZÓNY! Poslednou premiérou sezóny 2022/2023 bola inscenácia Kamil v réžii Mariána Pecka. Náš Kamil je síce...
Posted by Bábkové divadlo na Rázcestí/Puppet theatre at the Crossroads on Tuesday, August 15, 2023
なお、犬と人間の関係性をめぐる問いは、じつは学術的には真剣に考えられているテーマで、「サイボーグ宣言」で知られるダナ・ハラウェイも『犬と人が出会うとき:異種協働のポリティクス』や『伴侶種宣言:犬と人の「重要な他者性」』でこの問題を取り上げている。ハラウェイの議論は、今現在の欧米人形劇研究に絶大な影響を与えている新しい唯物論(ロージ・ブライドッティ、カレン・バラッド、ジェーン・ベネットら)が依拠する重要な基盤の一つでもあって、ここには人形劇的な可能性も潜んでいると思う。──というわけで、犬の人形劇やりたい人がいたら教えてください。
Livsmedlet "Invisible Lands" 🇫🇮
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最後に、前回は本作について詳しく紹介しなかったが、作品としてかなり卓越しており、実際に後から知った背景もたくさんあったので紹介しなおしたい。この作品は、フィンランドを拠点に活動するイスラエル出身の人形遣い Ishmael Falke と、ダンサー/コレオグラファーの Sandrina Lindgren によるパフォーマンス・デュオ Livsmedlet が、「アラブの春」以降の中東世界をモチーフとして制作した、難民の旅路を描いたパフォーマンスで、これまで二〇カ国以上で上演されてきた。出演はFalkeとLindgrenのみで、演出から美術制作まですべてを二人が担っている。
遠雷のような音が鳴り響くなか、簡易ベンチに男女(FalkeとLindgren)が腰掛けている。ゆっくりと靴を脱ぐ。男はシャツを首まで脱ぎ、頭を覆い隠した状態で女の膝に横たわる。女は、剥き出しになった男の背に中東的な街のオブジェクトを置き、そこから遠ざかっていくようにミニチュアを並べていく。なにかの仕掛けによって街からは白煙が立ち上り、観客は、ミニチュアたちは故郷を破壊された難民であること、そして遠雷の正体は爆撃音であったことを悟る。ここから、難民たちの壮絶な亡命の旅が始まる。はじめは二、三〇人程度であった集団は、旅路のなかで散り散りとなり、一人、また一人と姿を消していく。陸路を越えた難民たちは、ボートに乗り込み、水色のインクでペイントされた女の身体を漕ぎ出す。女の呼吸はボートを飲み込む激浪となり、難民たちは荒海に投げ出され、照明が落とされる。再び照明が灯ると、舞台はバカンス・ビーチに移っており、一人の生存者が浜辺に打ち上げられている。行楽客によって救出された、たった一人の難民が、国境検問所の審査を通過し、スウェーデンへの入国を果たすシーンで、物語は幕を閉じる。
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作品の節々で、ミニチュアの操演は小型のライブカメラでスクリーンに投影される。なかでも最も凄惨な場面は、雪山──膝を抱えて座り込む男の背中に、白い粉がはたかれている──を逃走する難民をヘリコプターが追跡し、一人ずつ銃殺していくシーンで、スクリーンにはヘリコプターの視点が投影され、観客はただただ殺戮の瞬間を、殺戮者の目線で見せつけられることになる。他の作品で見られるような芸術的なやり方ではなく、傍観者に対する道義的責任の追求として、視覚的要素が取り入れられている。
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また、オブジェクトの利用そのものについても、個々に明確な人格性がなく、自発的に移動することができない(強制移動させられている)、存在として矮小化された擬人のミニチュアは、主体性を根こそぎ奪われた難民を描くうえでこれ以上ないほどの効果を示している。ただ、それはつねに被害者として抑圧されている難民を描く場合であって、いつでもこうしたステレオタイプな表象が好まれるわけではない。とくに、難民のエンパワメントや、難民受け入れを促すための社会的なアクションにおいて、近年よく知られている Handspring Puppet Theatre の "Little Amal" は、これとはまったく対照的に、決して無視できないほどに巨大な、特定の人格と明確な尊厳をもった少女の人形をつくり、さまざまな国に「入国」させるというアプローチをとっている。
フェスティバルでは、本作の紹介にあたって、イスラエル出身で今はフランスなど三拠点で生活している男性が「いま中東で起きていることは、中東全体にとっての悲劇だ」というようなことを言っていた。それをイスラエル人が言うのか?と思ってしまい、観劇中から飛行機に乗って日本に戻り、つい先日に至るまで、ずっと「イスラエル人が難民の死を描くパフォーマンスをするなど倫理的に許されるのか?」という気持ちが払拭できなかったのだが、Falke の来歴を知って、この作品の見方が変わることになった。
Falke はイスラエルで生まれたトルコ系ユダヤ人で、パレスチナに対する侵略行為を批判し、良心的兵役拒否を選んだために、投獄されていた過去がある。イスラエルでは、一八歳以上の男女に兵役の義務が課されており、良心的兵役拒否は法的に禁じられてはいないものの、実際に認められることは稀であって、ほとんどの場合で一五〇日に及ぶ禁固刑に科されるという。こうした良心的兵役拒否者は、反シオニズムの異端者であると見做され、イスラエル社会から隔絶されてしまう。釈放されて以降、彼は今日まで平和活動に従事し、レイシズム、移民と難民、イスラエル/パレスチナ問題に焦点を当てた作品を数多く手がけてきた。現在はフィンランドに移住して、自身の劇団 Grus Grus Teatteri を率いているという。
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ここで自分自身の中に生じた「見方」の変化は、明らかに "アンチ・レイシズム的なレイシズム" 的な視点に基づいている。アンチレイシズム的なレイシズムのまなざしであるという点において、Falke の来歴を知った前と後で、実際には「視点(perspective)」はまったく変わっていないとさえいえる。結局のところ、自分は Falke という一人の人間について知ろうとせず、彼を「《パレスチナ人を殺戮する人種主義者としての》イスラエル人」というレッテルで捉え、彼とその作品を評価していた。だからこそ Falke は良心的兵役拒否によって「《パレスチナ人を殺戮する人種主義者としての》イスラエル人」から外れ、「《パレスチナ人を殺戮する人種主義者としての》イスラエル人に反対する反人種主義者」として自分と同じ側に立っているのだと見做し、こちら側に迎え入れることによって、作品を「正当に」評価できる心構えになったのである。これは "アンチ・レイシズム的なレイシズム" の思考形態そのものだ。このことを悟って以来、今もまだ、最初にこの作品を見たときとは反転した、自分自身の内面にある倫理的な問題と向き合っている。