見出し画像

おまえはだれだ? 考えているうちに迷子になったので、とりあえず途中まで書いてみた

4月24日に参加したサダナで、改めて考えさせられる問いが投げかけられた。「おまえはだれだ?」

おまえはだれだ?

 昏睡状態にあった婦人が亡くなった。彼女はすぐさま天へ連れてゆかれ、裁きの座の前に立たされた。
 「おまえはだれだ」と天の声が言った。
 「市長の妻です。」
 「だれの妻かときいているのではない。『おまえはだれだ』ときいておる。」
 「私は四人の子の母です。」
 「だれかの母かときいているのではない。おまえはだれだ。」
 「私は教師です。」
 「おまえの職業をきているのではない。おまえはだれだ。」

 そんなやりとりが続いた。何を答えてもおまえはだれだという問いに満足な答えを返していないようだった。

 「私はクリスチャンです。」
 「おまえの宗旨をきいているのではない。おまえはだれだ。」
 「私は毎日教会におまいりし、いつも貧しい人、弱い人を手助けしています。」
 「何をしたかをきいているのではない。おまえはだれだ。」

 彼女は見事にこの試験に落ちたので、地上へ送り返された。病がいえたとき、彼女は自分がだれなのかを見究めようと決心した。
 以後、彼女の生活は一変した。

アントニー・デ・メロ 『蛙の祈り』女子パウロ会(1990年)

この問いにどう答えればいいのだろうか。そして、「自分がだれなのかを見究めようと決心」することで、私の生活はどうかわるだろうか? 

その場では、答えることができなかったけれど、その問いは心にひっかかっていた。ふとしたはずみに、考えている自分に気づく。

「私は、何者でもないひとりの人間であり、私自身だ」などと、他の人にとっては何の説明にもなっていないし、独りよがりだとそしられかねない考えを持っていたし、捨てるつもりもない。職業や立場や経済力で私という人間を評価されることは好まないけれど、「私はだれなのか?」と考えるとき、人との関わりの中にいる自分に改めて気づく。「私は私だ」ということで、いかに人を遠ざけていたか、とも思う。

それで、考える。やっぱり「聴く人」かな。少なくとも「聴く人」になりたいし、そのための努力は続けたい。あるいは「見いだす人」かな。ご相談者が、悩みや問題を解決する道筋を見つけられるように問いかけてきた。自分でも、課題を解決するために考えたり行動したりすることは、本質的に好きだよな。あるいは「挑戦する人」かも? 

こういう答え方でいいのかどうかもわからない。おそらく答えは、「人の中にいながら、人との関係の中で揺らがない、他の誰でもない自分」を何と表現するか、なのだろうな。

と、ここまで書いてきたところで、釈迦が生まれてすぐに発したという「天上天下唯我独尊」ということばを思い出した。ずいぶん偉そうな響きのことばだけれど、一人ひとりがかけがえのない大事な存在だということじゃなかろうか。それにしても、伝説上の逸話とはいえ、生まれてすぐにそれを宣言した釈迦は、聡い人であり「見える人」だったのだろうな。

職業としてのキャリアコンサルタントの守備範囲はとても広い。それでも、ざっくりにいえば、適職に就いたり、職業上の達成(成功)を支援したりということが、主な職務内容だろう。最近は、職種として成熟してきて、支援の対象者や活動の場や手法が、かなり専門化、細分化してきたように感じている。

私はキャリアコンサルタントとして、その方らしい個性を活かせる働き方をサポートしたいという気持ちは、ずっと変わらない。「おまえはだれか?」という問いに答えるための支援といえるかもしれない。しかし、まずは、私自身が「おまえはだれか?」という問いをしっかり受けて立とうじゃないか(笑) 

この問いについて話し合う中で、サダナの指導司祭を務めていた植栗 彌(ワタル) 神父は、MISSIONとVOCATIONという2つの単語をホワイトボードに書いた。どちらも使命、天職という意味がある。

植栗神父は、招きとけいけんち(経験値か経験知か?)が「私」である、あるいは「私」となるというようなことをおっしゃった。「私」とは、「おまえはだれか?」の答えということだよね?

私とは誰? 書いているうちに、訳が分からなくなってきたので、今日はこのあたりで。「私」とか「アイデンティティ」とか「天職」とか、ときどきはnoteに書くことで考えを深めようと思う。

とりあえず、noteのプロフィールを書き換えておくことにしよう。

⭐︎

記事を投稿した翌日(2022年5月5日)にたまたま見かけたお寺の掲示版。
こんな偶然もあるのだなと思った。