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なぜ国宝「平家納経」の模本は作られたのか?

原本があるのに、なぜ模本を作ったのだろう。
「平家納経」の模本の存在を知った時、私は思った。
素人の浅はかさで、模写は修行中の練習というか、原本より下に思ってしまったし、全部作ってどうするつもりだったのだろう、と考えていたのだ。

ところが、東京国立博物館で見た田中親美サンの「平家納経」の模本は、豪奢かつカンペキで、独自の輝きを放つ、すでに文化財クラスに見えた。
それもそのはず、親美サンの模本は修行などではなく、文化財の保存と伝統の継承が目的なのだ。

大正時代。「平家納経」の拝観希望が増加し、厳島神社は保存と普及で悩んだ結果、模本作成を財界出身の数寄者である三井財閥ゆかりの高橋箒庵と益田鈍翁に依頼した。

美術蒐集家の重鎮でもある2人は、この日本の宝を後世に伝えるために、模本を作る壮大なプロジェクトを立ちあげた。
まずは資金集めが必要だ。益田鈍翁は当時の財界人や数寄者からの資金を集めのため、自身が始めた茶会「大師会」で「平家納経」の原本数巻を厳島神社から取り寄せて展示、参加者からの寄付を募った。

当日、参加者の反響は大きく、資金が一気に集まったと「よみがえる王朝のみやび」にはある。
原本のあまりの美しさと迫力に、人々がプロジェクトの意義に賛同したのではと想像してしまう。

益田鈍翁が開いた茶会「大師会」。
この茶会は弘法大師筆「崔子玉座右銘」断簡を鈍翁が入手したことを契機に、明治29年に発足し、以後毎年弘法大師の縁日に開かれ、今も各界の名士が集う場となっている。
この茶会で茶席を担当するのは茶人にとってステータスだったそうだ。

今なら楽天の三木谷さんとスタートトゥデイの前澤さんが引退してから国宝の副本プロジェクトを行った、みたいな感じなのかな?うーん、ちょっと想像が追いつかない。
当時の日本は貧富の差が激しく、富裕層はとてつもなく裕福だったろう。だからこそ可能だったのかもしれない。

模本制作の経緯について、詳しくは「よみがえる王朝のみやび」図録と「平家納経 模本の世界」をご覧ください。

「よみがえる王朝のみやび」

「平家納経 模本の世界」

大師会

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