哲学含め文系が機能不全にある件について
2022-8-004
我々はある観点の下でより確からしいもの(より通用領域の広いもの)を選んでるだけ(判断放棄も選択肢)であって、
ある主題にどういう反応を見せるかそれ自体が問題なのではなく、
自他の反応に要求できるのは、観点設定の内実が確からしいならどういう反応もOK(帰属の修正余地がない)だけれど、
認識場の性質の疑似化を許してるとか、認識主体の固有性が代替不可能な内外事情にしか応じない主体像の帰結でなくても気にしてないとかなら、確からしくない、
という話を踏まえて、帰属の修正余地を潰す(都合を限定通用的状態から普遍通用的状態へと持ってく)事だけ。
我々は内在事情を外在の性質の下で問題解決し続けてるだけであって、
その精度に関わる内外事情についての理解(世界理解込み)を、次元設定自在性という人間性の下で展開できるわけだけれど、
限界のある対象理解に対して要求できるのは、現状可能な上限からの乖離といういらぬ勘違い部分を潰す事、
言い換えるなら、有限の与件性、より確からしいものが取って代わる運動性、この両者に帰属がある状態(帰属の修正余地がない状態)
に理解(対象に関する抽象具体の関係構造を確立できてる感)を持ってく事だけ。
哲学含む既存の文系が、帰属の修正余地を残してしまう(通用の行き渡ってる状態にあると勘違いしてしまう)、
ひいては、内面世界や社会といった場が、場の疑似化した性質に合わせて整合を展開し、
場に置かれたものに負わされるに値しないものを負わせ続けてる事態を修正できないでいる
(単に表層を洗練させてるだけで内実を修正できないでいる)のは、
局面と着目無視を合致させる能力が教育されず、
文系的局面において場の性質(具体化条件)なり内外事情(内在場や外在場の性質)なりが、
同種の他との共通要素の捨象に十分さらされているいない(それがそれである限り持たざるを得ない要素が埋没しているいない)の差異について着目しない(原理を恣意的にしか取り出せない)為
(同種の他との差異要素の捨象アプローチの領域侵犯と共通用要素の捨象アプローチの埋没、これらから成る近代パラダイムに縛られたまま、
したがって、通用の行き渡ってる状態を保存しつつの展開かどうか、抽象化や具体化かどうかを文系的局面、つまり、同種の個々に帰属がある局面では判断できないのに、
文系の知的上層になれてしまう為)であって、
偶々現状、機能不全にあるというだけ、そう考えます。
また、言語はじめ文化という問題解決スタイルを外在から取り込みつつ、内在的に構築した問題解決スタイルであるだろう自我は、
内在事情を外在の性質と次元設定自在性(人間性)の下で問題解決し続けてる中で、意識という管理的問題解決を可能にし、
その管理に関わる類の、自己に帰属してるはずのものが失われているいない、つまり、自由不自由を判断する観点でもあり、
局面と着目無視を合致させる(局面の性質把握に同種の他との共通要素の捨象が必要)など、
自身を助け過ぎない(各場の尊重に一旦遡り、原理を押さえる事によって、内面世界の尊重にも実質を与えてる形)事で肥大化を抑えられる。
そう推測してみましたが、肥大化を抑える事ができてる、もっと言うと、局面と着目無視の合致の下で構築されてる点をもって、
自我はもちろん、文化も肯定される、という条件を尊重に付す事により、個人レベルでは、
より確からしいものが取って代わる運動性に対する、ご都合主義的帰属関係を手放さない事で生じてる阻害について、
外在から取り込んだり内在的に構築する程度を抑えられるし、社会レベルでは、
内実の確からしさ差異、言い換えると、帰属の修正余地の有無を区別しない、そのせいで搾取可能状況を齎す類の平等化や権利主張が許容される事態を防げるし、
相対主義絶対主義(場に合わせる合わさない)の二択枠組みによる矮小化に、文系学問やテキスト解釈が陥ってる事で生じる弊害を防げる、
そう考えます。