無題0

平和主義はこれまで、アンフェア除外を付帯させてない類の寛容を内容としてきたので、国民主権を機能させる方向性と整合的でなく、日本国憲法の限界の原因になってる

2019-7-002
日本国憲法に関するスレ(大艦巨砲主義さん)に投稿した内容


平和教育が、
アンフェア除外を付帯させてない類の寛容(善人の罪)を、
その内容としてる場合、

民主主義に必要な教育と整合しない、

この事実を、
平和主義と国民主権の関係(日本国憲法の体系)に重ねましょう。



対政治(国民主権不全化の阻止)で最も重要な能力は、

場の管理者がその責任を果たしてるかどうか、
つまり、場の本質を損なわないように形式や帰結が組み上がっているか否かを評価する能力です。


競走に際して、
ドーピング選手の混入等で、問われてる差異の取り出しに失敗してるなら、

運営は修正対象になるわけで、
その最大限の修正努力と運営の持つ権限は対になってると見るべきであり、

社会契約にも同じ構造を見、
先の能力を持つ国民の多寡が、
そのような努力を促す的確な修正圧力(民主制なら実行力有り)、
ひいては、権限の正当性に響いてると解しましょう。



しかし、日本に限らず現行教育は、
(内面世界や自国社会や国際社会も、無数にある局面も、場と見た上で、)
場の本質を損なわないように形式や帰結を組み上げる能力や視点を、
育成してません。

(安保理等、先の大戦での相対的善悪差への相対性を超えた扱いを、
世界が引きずってるのも、その弊害です。)

当然、前例のないケースでの政策立案や制度構築について、
必要になる能力も、評価する能力も、教育されてません。

それどころか、
競走に際するドーピングも、
主張選抜に際する不当主張も、実験に際する不正行為も、
妥当帰結の阻害要因という点では同じなので、

そこの育成不在は、的の外れた知性教育も意味してるわけです。



せっかくの民主主義や国民主権を機能させたいなら、
まず、現行の知性教育の形骸性を改める必要があるという事です。

知性の実質を、
いらぬ飛躍の除去(ソクラテスが重要性を提起したそれ)と規定し、

その言い換えである、
いらぬ特化(大した根拠のない死角産出、つまり、通用領域限定)を避ける処理は

先の能力の基盤となる、
その場その場の代替不可能な固有性と次元設定(着目無視)との合致配慮、

それと相補的な、
抽象化と具体化条件割り出しの最大限追究、

この二つから成ると解した上で、
それぞれを倫理の実質、理解力の実質として押さえた教育に刷新し、

フェア主体のみが参加可能なプラットフォームの世界標準化を、
知性から始めましょう。



(理系的捨象と文系的捨象の局面に合わせた使い分け、
資質や環境の代替不可能な性質に即した能力獲得、
それらを埋没させてるこれまでの教育から脱却を果たすには、

その知性の実質を、
科学的思考やPISA系基準、生きる力や主体性等、
既存の教育理念の先立たせる必要があります。)



その刷新は、
フェアを、場の本質に即した扱い(着目無視や損得の割り振り)への支持と見れば、

アンフェア除外を付帯させてない寛容(善人の罪)をベースとした、
これまでの倫理教育からの脱却です。


例えば、
場の本質に即した引き受けるべき損失まで、傷付きたくない等で回避する、
余裕や能力の有無、状況との整合性とは無関係にアンフェアと敵対せず、アンフェアの被害を見殺しにする、

そうした方向性と平和が結び付く展開も防げますし、

フェアアンフェアに扱いの差を付けない振る舞いは善人に値しない所業との認識を欠いた、
これまでの平和に関する理解や議論のパラダイム(組み上がってる形式)も変えられるはずです。

(他にも、
人にデフォルトである次元設定自在性が、先の合致配慮の下に置かれてるかどうかについて、
これまで扱いに差が無かった、人間性の保障に関しても、
同じ期待が可能です。)



政治(国際レベル含む)の健全化のネックとなってる、
近代以来の権利観(人権主権財産権へのその影響)、
アンフェア除外を付帯させてない類の寛容への理念扱い、
相対的な善悪差への相対性を超えた扱い、

それらが、
日本国憲法自体やその扱いにも、いらぬ限界を作ってる事実を求め、

機能した国民主権と平和主義とを整合させる為にも、

知性が不全を来してるしてないの問題に、
対秩序も帰着させる事が可能な教育へと変えましょう。

ご支援の程よろしくお願い致します。