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3230文字、理系の人が論理の不十分さに敏感であるのと同じだけの敏感さを、個別性の取り違えに対して持つよう文系者に要求しようという話

2024-9-005

論理には個別性が根拠になる局面での論理とならない局面での論理があると解していれば、
感情を根拠にする事自体が論理の拒絶を意味してる事にはならないし、論理的に感情を根拠にしてるケースとしてないケースがある事になります。

(論理展開は成功してるかどうかはともかく、通用が行き渡ってる状態の維持、局面の取り違え最小な性質に合わせた表層形の構築、
この両者間の行き来による同一性変化性の同時達成である、抽象化具体化交互反復による表層形変転というイメージです。

また、直線とそれを構成してる点との関係には、どこまでも桁を小さくできるところを途中で止めるが故の無限性から有限性への飛躍、
無限の点を集められないが故の有限性から無限性への飛躍、これらが現実的処理上は必要で、これら飛躍が妥当となるのは急所を押さえてる場合だとすると、
急所判定は価値把握であり、価値は場が決めると解する事によって、展開性との現実的関係は場の個別性把握の問題に帰着可能なように思われます。)


ならない局面での論理(通念的論理)は、フェアな人もアンフェアな人も人である事には違いない、といった個別性捨象(同種の他との差異要素捨象)による内実不問化が前提であり、
なる局面での論理(文系論理)は、個別性の取り違えの最小化(同種の他との共通要素捨象)による個別性の取り出しが前提であると見なせます。


つまり、個別性が根拠になる局面では、通念的な論理感覚(対主観などで個別性捨象に確からしさを覚える感覚)を根拠にするのも、
代替不可能な内外事情にしか応じない実存を生きてない人(やその集積)が自身の個別性を根拠にするのも、

論理が前提段階で破綻してる事態(場の個別性と場の上に立ち上がってる秩序との齟齬の一種なので、
内面世界や自国社会や国際社会といった文系的秩序を評価する能力が原理レベルの確からしさを持ってない証拠、
したがって、その種の秩序有り様に対する肯定否定が、知性倫理美意識の権威の獲得具合によらず、真に受けるに値しない証拠であり、

また、意識は注力的問題解決なので、何に注力するかが局面と一致してないという具体化精度の低さの下で意識が展開されてるが故に、
低い精度の検証結果までフィードバックする仮説改悪が、対文系事象における無意識に関して起きてる)と言えます。


(数を数えると、林檎や蜜柑やまだ見ぬもの等を数える、との間には抽象具体関係構造があり、
同様に、上で言う齟齬の解消にとっての内面世界等は個々具体なので、個々具体秩序の管理者ポジションを対立関係、

そのポジションが齟齬解消の責任者として振る舞うのを阻害する枠組みであるこれで秩序を捉える発想は、
抽象度不足という通用が行き渡ってない状態に対して修正余地を覚えない知性不全の現れであり、
妄信と反動反発の表層形反転二択からの脱却という十代前半の達成課題の未達弊害とも疑えます。)



しかし、実際はこの破綻な両者から成る二択(一方の批判にかこつけて他方を押し通すロジックをもって仕事した事になる状況)がこれまでの文系空間の実態なので、
理系者が通念的論理の不十分さに敏感であるのと同じだけの敏感さ(及び、受容してしまうと、
通用が行き渡ってない段階のものを通用してると位置付ける知性不全が意味されるとの理解)を、個別性の取り違えに対して持つよう文系者に要求し続け、

文系における近代性でもある為に、近代性を再生産してるだけ、近代性の弊害を着せ替えてるだけ、近代の外に出れば解消される類の悩みに振り回されてるだけ、
といった事態の原因でもあるその二択な発想の産物が、文系権威の付され具合によらず、取り合う価値のないものとして扱われる状況へと持っていきましょう。



ちなみに、場の取り違えを最小化させた個別性に即した秩序への志向は、具体化精度の上限化への志向の一種であり、
現象が取り違え最小な内外性質から成ってる状態と同等である、抽象化具体化の不十分さ解消状態での帰属関係を、修正余地がなく受容に値するものとする枠組みの構成要素でもあって、
具体化精度の差異を軽視した状態での抽象化処理はヘーゲルのミスの繰り返しですし、

専門家の言動に確からしい抽象具体関係構造を覚えるケースとは逆に、その人の専門分野での抽象化不足
(精度の低い検証結果のフィードバックは少なくとも仮説改善を上限化しないので、具体化精度軽視も原因の一つ)が見られた場合、

数を数えられないのに林檎を数えるのはできてるつもり的な対象理解や、家電を叩いて直す的な問題解決でもやってける、
ぬるい分野である事、または、分野内のぬるい階層に位置してる事が示唆されてると考えます。


ところで、理想現実関係(抽象具体関係の一種)における、理想を割り引く程度を最小にしつつ成り立ってる現実である、
代替不可能な内外事情にしか応じない実存を、存在性との対峙で要求しない芸術観も、無限者との対峙で要求しない信仰観も、
尊重が形骸化してるとの指摘もなくまかり通っていますし、権威を持ちさえしてます。

抽象化具体化の不十分状態から十分状態(修正余地がなく受容に値する状態)への移行の意味での問題解決試みが、
代替不可能な内外事情にしか応じない実存を具体化条件に具体化された内容なら、

表層形が利己的であろうと利他的であろうと肯定するし、そうでない内容ならどちらであれ否定する有り様を阻害する
(したがって、帰属修正余地のない有り様でなく、帰属操作を含む有り様を優先する搾取保障である)、利己利他対立枠組みを前提にしてる主張についても同様です。
(善人も自覚なく帰属関係の操作に加担し得る以上、善人悪人という分別枠組みもこの問題解決像にとっては有害です。)


なので、文系空間は現状、知性的側面に限らず、ぬるい世界であると言わざるを得ません
(理系知性はガリレオ以降、抽象化具体化の不十分さ解消を追求してる為、理系空間はそうではない)から、この事実を認めましょう。



例えば、気づかれたくない状況で音や声が出るのを防ぐ。物資が増えない状況で節約の要請に従う。社会の管理者の定めたルールに従う。
これらを外在場の取り違え最小な個別性と整合的な加工であれば引き受ける(言語化に伴う取りこぼしや、言語も当然含まれる外在的な問題解決スタイルである文化の内面化に伴う取りこぼしなどにおいて、

取りこぼされの重視と軽視の二択から成る先のロジックに取り込まれる事なく、
近代性の焼き直しとして退ける上で必要な態度でもある)という話の点で同種のものとして扱う抽象化を為していれば、

内在不問外在軽視な典型自由観を、前の二つに関しては、置かれてる場に通用させ続けるという存在課題への対応能力の低さに繋がるとしつつ、
三つ目に関しては、前提にした上で先に見た管理者ポジション間の対立枠組み

(そのような加工であれば引き受ける協力関係、具体化精度の低さが批判の論点ならその裏返しであるこれではなく、
都合の押し付け合いな世界観、もっと言うと、帰属関係の操作が許される属性が存在するかのごとき世界観と整合的で、
事情や情報の帰属修正という、自己の都合を対象に投影する同一視を防ぐのに必要な処理の不全の産物)に持っていく不整合はないはずです。

つまり、その種の対立枠組みを政治に持ち込むのは、同種の個々との分離を引き起こす価値体系を、現象解釈に持ち込んでるからで、
理系事象の解釈には客観視を要求するけれど、文系事象の解釈には局面と着目無視の合致によるいらぬ価値体系持ち込み阻止

(その合致の下での対他者としての平等、対自己としての自由、これらからの乖離程度を具体化精度の低さとする観点から、
自己も、テキストの書き手や提示者も評価しながらの対テキスト)を要求してない既存の教育の弊害である、
対文系において認識場が疑似化してる事態(文系空間から疑似問題が減らない原因)の一つの現れであると言えるように思います。

ご支援の程よろしくお願い致します。