上限についての理解(理系で言うと2+3を5より大きく見てる的誤解が文系域で展開される暴力性)を修正するような、哲学の再構築について
2021-5-009
いらぬ特化の下で何か(洗練含む)を得る事に疑問を持たないのは、
限定作用をやむ得ないものへとより近づける事で、限定前後の通用量を保存する(やむを得なさという、条件変動耐用をもって補完する)必要性を覚えてないからなわけで、
知的上層だろうと、文系域についてはその必要性を覚えない(特に、応じる内在事情外在事情の代替不可能化処理を、自由観や上限観に結び付けない)人ばかりである以上、
論理展開の論点(主語述語関係への古代の検討における観点にまで遡る)を、
通用が行き渡ってる状態を保存しつつの表層形変転と言えるかどうかとしてこなかった、
少なくとも、理系的局面と文系的局面とで、捨象対象設定(限定作用)が真逆である点を取り込んだ上でのその論点理解ではないという、抽象化不足(特に、近代性による理系的方向に偏った捨象観)を持つ、
教育界や学問界(哲学者)に、
世界の有り様に対して影響力を持つ立ち位置にある者達が、感覚や思考を未だ近代性に特化させてる事の弊害の、原因帰属があると言えるはずです。
逆に言うと、
理想とそれが割り引かれてるものとの間の関係についての、
プラトンアリストテレスや、その合成なり変形とも見なせる(修正の歴史とも言える)ような種々の理解を、
限定前後の通用量の観点から評価しつつ、同じ観点枠組みでもって主語述語関係(主語の切り出しや述語化)、及び、論理展開や歴史展開を捉え直す内容の、
哲学の再構築を、対世界(対外界)に先立たせるなり並行させるなりする必要が
(後続の哲学者達が、その内容での修正をするという意味で、先行を活かし切った歴史を紡いでいたなら、西洋主導後の世界でも上の弊害は、
さらに、理系で言うと2+3を5より大きく見てる的な上限観を文系域で展開し、有限世界故に奪う形となる暴力性は、
抑えられてた、との理解も伴わせたその必要が)あるのだろうと思われます。
例えば、通用領域の広狭と確からしさとの相関(および、それを包含する、より確からしいものが取って代わる運動性)、有限性の不可避性、
誰もが自覚なくとも前提にしてるこの二つ(ある観点の下で前者を展開してるという、両者を合わせたもの含む)に、
着目する差異無視する差異の設定(確からしさ差とする差異の選抜)という限定作用が、捨象対象選定を局面の性質次第とする態度
(局面の代替不可能化させた固有性と捨象対象との一致度に確からしさを見る方針や、上の相関から大した理由なく飛躍しない態度)として現れるような形(通用量保存の形)で頼る。
このスタイルが、
理系域にはその位置づけの変遷はともかく、確定的に思える原理がある一方で、文系域にはそのレベルの原理など無い的な想定の振る舞いも含めた、
絶対主義と相対主義の二択枠組み(十分な修正が果たされずに来た哲学の歴史の弊害である、表層形反転踏まえた解決感覚)に対して、
単に、同種の他との差異要素捨象が要請される局面もあれば、共通要素捨象が要請される局面もあるに過ぎず、
限定前の通用量最大化と限定後の通用量保存から成る表層形変転(抽象化具体化の交互反復)である事が説得根拠(原理抽出含む、帰属が修正されたものと言える根拠)な点は同じといった、
表層形に見られる剛柔や静動自体に論点はない(文系域では、最大限代替不可能化させた内在事情外在事情が、通用量を保存するような限定作用を構成するだけ)との理解への、
上書きを可能にすると期待します。
ご支援の程よろしくお願い致します。