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2965文字、既存の教育有り様(と整合的な文系学歴の価値)を保障しようとする人達が負う責任について、文系的実質を欠いた論理や自由平等にも触れつつ
2024-11-003
内実不問な知性倫理美意識の持ち主を量産してる既存の教育有り様(と整合的な文系学歴の価値)を保障しようとしてる人達
(理系では、対主観はじめ個別性が根拠にならない局面での同種の他との差異要素捨象という個別性捨象による内実不問の下での整合が要求されてるのに、
文系では、対主観はじめ個別性が根拠になる局面での同種の他との共通要素捨象という個別性の取り違え最小化による内実の確からしさ確保の下での通用が行き渡っているいない判定が要求されてない現状、
したがって、文系の学歴が、足の速さの差異を問われてる状況で家柄の良し悪しや薬の効き具合等の序列付けへの反映を許してる的茶番な指標と化してる現状に対する、
修正要求を潰す人達)に、内実不問が原因の現象に関する責任を帰属させましょう。
場が持たざるを得ない偏りと、整合してる優勢劣勢有り様でない部分込みで格差を肯定してる過剰肯定や、
整合してる優勢劣勢有り様込みで格差を否定してる過剰否定が引き起こす不幸について、その人達には責任があります。
場が持たざるを得ない偏りを場全体に行き渡らせる管理(認識場では知性倫理美意識の働き)となってるかどうかとは無関係に、
権力を肯定したり(帰属操作を防げてないにもかかわらず既存のルールに修正余地を覚えないなど)、
否定する(割り引かれ自体の拒否など)有り様を通して保存される搾取についても、その人達には責任があります。
存在するのと引き換えでない要素を存在に帰属させる帰属操作を防いでる代替不可能な内外事情にしか応じない実存を生きてない人は、
存在してるだけで搾取してるのに、個人の尊重にかこつけて、個別性の取り違えを論理飛躍扱いすれば防げるこの搾取(が反映されてる感情選抜や意見選抜)を正当化(修正要求を封殺)し、
理系で言う2+3を5として進めてる話と10や0として進めてる話に同じ資格を与えてるのと変わらない状況を、文系に齎す理念の内容の理念の影響力についても、その人達には責任があります。
(なお、個別性が根拠になる局面では、主体の個別性にも、主体の置かれてる場の個別性にも修正余地がなければ、主体の受ける扱いは受容に値するので、
文系では、何ができて何ができないかという有限性有り様が代替不可能な内外事情にしか応じない実存の反映であり、
場が持たざるを得ない偏りにとってそこの差異に取り上げるだけの価値がないなら、
2+3を5とする人と10や0としてしまう人との間に扱われ差異は生じません。
したがって、理想を割り引く程度を最小にしながら成り立たせてる現実でもある為に課せられてる条件上の最善と言えるその実存を誰もが求められ、誰もがその実存以上を求められる事のない平等性、
条件差異の無視や無効化でなく、条件上の最善をもって誰もが繋がる世界を構成するこれも、
取り違えを最小化させた局面事情と着目無視との合致の下での対他者を内容とする平等も、文系的実質を持ってますが、
個別性捨象を前提としてる通念的論理は文系的実質を持っておらず、対文系では表層次元を洗練させるだけの小手先の解決しか望めない為、
対文系でも絶対的なものとして扱うのは無理筋ですし、そう扱う事で中身のないものをあるように見せかける類の説得能力と化してしまいます。
そして、個別性が根拠になるならないという局面事情に関係なく個別性捨象を押し付ける内容の平等観もやってる事は同じです。
同様に、その実存の反映部分以外も込みで振る舞いを肯定する過剰肯定と、反映部分込みで振る舞いを否定する過剰否定の同時棄却に伴う解放や、
場の取り違え最小な個別性に即した割り振りへの支持の意味でのフェアを越えてまで自身を助けないなどの同合致に伴う解放を、
自己に保持させる対自己を内容とする自由は文系的実質を持ってるのに対して、
割り引かれ自体の拒否も含まれる内在不問外在軽視な典型自由観は文系的実質を持ってません。
集団に合わせるのが嫌とか、逆に、和が損なわれるのが嫌だとしても、個人や和を抽象物としてその具体化精度を最大化し、抽象次元を改善するフィードバックを得る問題と捉えるべきところを、
割り引かれ自体の拒否は、改善機会の放棄によるいらぬ割り引かれを負うが故の自己否定、
自身の属性に縛られるのを拒む反応に至っては、引き受けざるを得ないわけではない属性に付き合わずに済むよう、主体と場の個別性取り違えを最小化する処理、
上で見た主体の為す選抜に搾取が混入するのを防ぐ処理でもあるこれとバッティングする為に有害ですらあると捉えましょう。)
過去や現在の実態露呈で満足し、理想現実関係における安易さである、理想を取り違えて設定してる、
理想を割り引く程度に過不足がある(割り引かれ自体の拒否の理念化は、次善の策への肯定否定であれ明晰曖昧の程度であれ、
局面次第でしかないものの有り様を局面事情無視で定める短絡さを内面化してる例)、
これら(限定を受けてない状態の準備とそれが引き受けざるを得ない限定条件の割り出し、この両者の上限化から成る、
取り違えでない理想を割り引く程度が最小となるように成り立たせてる現実を、したがって、課されてる条件における最善を点として紡いでる歴史とのズレ、
言い換えると、精度を最大化させた抽象化具体化の交互反復における変化不変化とのズレ、
例えば、フェア志向である為に具体化精度を上限化できてる場合の展開とのズレ)を除去対象とする観点をもって、
実際の過去や現在、あるいは、未来像を評価するところまでいかない為に、情報を生かし切れてない理解力で為す肯定否定(修正余地匿いや冤罪的非難)についても、
(表層次元を生きてる人は例えば古典に触れたところで小手先の解決に落とし込むだけなのに、
既存の教育と整合的な人は内実不問に追いやられてるわけで)その人達には責任があります。
(実際、助けられる立場として参入し、助ける立場となり、また助けられる立場となる大まかな流れのどこかに誰もが位置していながら、
上で言う現実であり、場の取り違えを最小化した個別性に即してるとの意味でフェアに割り振られた役回りであれば引き受けてくれると期待できる、代替不可能な内外事情にしか応じない実存の、
割合が低いという不健全性を修正余地として扱わないまま、大小様々な社会の実態への肯定否定保留が発信されてます。)
内実の確からしいものと確からしくないものがたまたま同じ表層形をしていた場合に、
内実不問に追いやられていると、前者を後者かのように、あるいは、後者を前者かのように誘導する言動を真に受ける事になってしまいます。
批判の妥当不当(帰属修正的か帰属操作的か)に関係なく批判自体を肯定否定したり、フェア志向が感覚選抜に先立ってなくても快不快等を根拠にしたりがまかり通るほど、
自他や大小様々な社会における修正可能な部分が保存されるとか、変えるべきでないものまで変えられるとかによって改善の働きは阻害され続けるわけで、
文系学歴の高低と内実の確からしさを検討する能力が機能しているいないが重なってるなら、まかり通るのを権威が助長するなどないはずですから、
重なってない現有り様に修正余地を覚えない全ての人に、改善の働きが受けてる阻害の責任を帰属させましょう。
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