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3226文字、文系における論理や歴史を評価する際の注意点について

2024-10-006

論理展開は、通用の行き渡ってる状態を保持しつつの表層形変転でありさえすれば良いと割り切る事にして、
その状態を、通用の行き渡ってる状態として抽象次元があり、通用の行き渡ってる状態と同等であるより確からしいものが取って代わる運動性を阻害最小で受容してる有限性が内容の限定性として具体化条件がある時の、

抽象化具体化交互反復と捉え直しつつ、文系論理ではこの反復が同種の他との共通要素捨象を用いて展開されてる場合、
個人レベルの歴史展開では代替不可能な内外事情にしか応じない実存が具体化条件である場合

(この場合を生きてる人の歴史を直線とした時のその直線を構成してる点Aを取り出しても点Bを取り出しても、
また、誰もが課されてる条件上の最善を求められるけれど誰もがそれ以上は求められる事のない平等世界から無作為に人物Aを取り出しても人物Bを取り出しても、

理想を割り引く程度を最小にしてる現実の達成を志向してる点では同じであり、
志向してない人は有限者の為す認識にも、言語化にも、存在性の演出的発現である芸術や競技的スポーツにも、
抽象次元を過剰に損なう形でしか関われない為、この種の問題から解放されてもいます)、


社会レベルの歴史展開では代替不可能な内外事情にしか応じない主体像の集積が具体化条件である場合、
これらと実際有り様とのズレ部分を修正余地扱いする事で、局所的な話を全体と整合させましょう。

(通念的な論理は同種の他との差異要素捨象による個別性捨象がベースなので、
個別性の取り違え具合という内実に直接的には介入できず、表層をなめす洗練の副産物としていくらかの取り違え縮減があり得るだけなのに、
個別性が根拠になる局面で持ち出してるのなら当然、修正余地が発生しています。)



もちろん、個別性が同種の他との共通要素捨象に十分さらされているいないを評価できない人の文系事象や歴史展開に対する評価、
つまりは、既存の文系空間(その捨象が教育対象でない既存の文系教育との間に双方向の影響がある)における評価を真に受けてると、この整合は達成されません。

例えば、利己利他を個々具体とする抽象次元、取り違えを最小化した局面事情から成る具体化条件、
両者が合わさった結果として利己利他の割合が生じてる場合と実際有り様とのズレ部分を修正余地扱いする事なく、
利己的な振る舞いや利他的な振る舞いを評価する人達の、全体が見えてない感と同様の井の中の蛙性を、

加えて、通用の行き渡ってる抽象次元との断絶から、数を数えられないのに林檎を数える事ができてるつもり的な確からしさしか持ててない対象位置づけ、
協調系搾取を見ないまま競争系搾取を語って、搾取自体の阻止を妨げる事例から分かるように有害なこれについての責任を、


論理展開や歴史展開に対する既存の文系空間における評価基準の内面化が言える文系者
(存在するのと引き換えでない要素まで存在に帰属させてる帰属操作がある状態での存在立脚を許して生きてきたわけなので、
何らかの搾取を起きるべきでないものとして扱った時点で、帰属操作Aを肯定しながら帰属操作Bを否定するご都合主義が確定しまう人達)に見出し、

感情などの個別性を根拠に為す対象位置づけに対して、個別性の取り違えを論理飛躍とする観点から評価する側面が、
含まれてる文系空間の構築を誰が妨害してるのか、という問いの答えとしましょう。



ちなみに、上の利己利他の話と同じ構造を対常識に見ると、常識について現代日本の事例や百年前のアメリカの事例といった差異情報を踏まえて特定時空性を外した抽象次元に遡った上で、
引き受けざるを得ない特定時空性を割り出し付し直したものと実際有り様とのズレ部分の有無とは無関係に、
常識を肯定否定する、あるいは、他の有り様に閉じたり開いたりするパターンがそれですが、

個別性が根拠になる局面で個別性をその取り違え可能性に対して不問なまま根拠にするデカルト系、同局面で個別性を捨象するカント系、この二択が内容の近代性、
もちろん、どちらも個別性の取り違えを可能なだけ取り除く処理の不在が問題点であるので、
この問題点を保存したまま対立だけ解消するヘーゲル系も乗り越えてる事にはならないこれに、言動が今なお縛られてるのに、

例えば、ローカルとグローバルの対立関係への言及がこの二択(一方への批判にかこつけて他方の押し通すロジック)から成ってるのに、
たとえ権威者によるものであろうと近代性(個別性の取り違えを論理飛躍とする観点が阻害される為、
中学生が数学の問題で公式や代入要素を取り違えてる的ミスが、文系的な認識現象や存在現象の中身である内外性質統合で起きてるのにミス扱いされない状況を齎す認識枠組み)の再生産として、

特定の常識が条件変化にもかかわらず居座ってる事例が受ける場違い扱いにさらされる、
この反応が見られない以上、既存の文系空間は認識枠組みに関するそれとして該当してしまいます。



近代性の問題点は結局のところ、分離処理(表層形反転な解決込み)に留まり、修正余地を少なくとも一方に残す点と思われ、
個人の精神を教会から分離した形のデカルトの場合で言えば、認識場の個別性を代替不可能な内外事情にしか応じない実存の帰結とし、
信仰を信仰対象との対峙に際して理想を割り引く程度を最小にしてる現実である同実存を採用する事によって、双方の修正余地を潰す修正が必要です。

ところで、価値判断をしない有り様は価値判断をする有り様よりも選ぶに値するとするのも価値判断ですし、
存在してる時点で、置かれてる場に通用させ続けるという存在課題をこなせるだけの通用性の高い振る舞いを選び続けてるわけで、


価値判断による対象矮小化を危惧するにせよ、価値判断をしない有り様への志向は無理筋な疑似問題であり、
通用してる領域の広狭と確からしさとの相関への依拠についての通用してる領域の広狭の問題

(方法的懐疑はこの相関の適用を徹底してるように見えて、認識場の個別性の取り違え不問を、
つまりは、足の速さの差異が問われるべき状況で他の差異が混入する的な取り出す差異の取り違え不問の、主観立脚に際する常態化を齎した以上、
この相関を持ち出す際の観点にこの相関を適用しない狭さ持つ内容と見なさざるを得ず、

デカルトへの立脚はこの相関にのみ依拠してる状態にまで遡れてない中途半端さに個人であれ、時代であれ付き合わされる事になる、
例えば、この中途半端さの下で捉えられ検討されてる何らかの帰属に関する問題を真に受けるなどが起きる)があるだけと捉えるべきです。

有限者の形でしか存在できない事実は認識場に偏り(価値の差異)を持たざる得ない事を意味していて、
この偏りについて認識者が存在するのと引き換えでない要素の反映されてない状態を維持するのと、デカルトの乗り越えとは同じ話であると解しましょう。


また、上で見たズレ部分把握の能力が機能してる場合、対人は他者Aが代替不可能な内外事情にしか応じない実存を生きてる場合と実際有り様とのズレ部分を修正余地として扱う側面を含む事になるので、
対テキストも文章の書き手や引用者が持つ付き合う必要のないその修正余地部分の把握が理解力に含まれます。

この意味での理解力を点数獲得の為に捨ててしまうのは被教育に際するいらぬ特化ですが、
このいらぬ特化を文系者にも強いてるのが、同種の他との差異要素捨象の能力の獲得を要求しながら、
個別性が同種の他との共通要素捨象に十分さらされてるか検討する能力を埋没させる点で近代性を事実上背景にしてる既存教育です。

誰もが課されてる条件上の最善(理想を割り引く程度を最小にしながら現実を成り立たせる事)を求められるがそれ以上は求められない平等世界への志向を、対テキストに先立たせる事で、
その最善かどうかと無関係にテキスト内容(過去時空の常識など)を肯定否定する知性倫理美意識を退けましょう。

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欧米文系の権威性からの解放哲学。代替不可能な内外事情にしか応じない実存を解決状態として扱う主義。
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