2567文字、哲学は何を糾弾され、どう修正されるべきかを、変化不変化や論理性非論理性が形骸なまま根拠にされてきた文系空間への責任の観点から
2023-5-004
利己利他についてそれらを個々具体とする抽象次元に遡りつつ具体形は具体化条件次第とする態度や、
対常識について(例えば、政治経済での変化しな過ぎも変化し過ぎも同時否定すべく)引き受けざるを得ない特定時空性の付し直しの問題と捉える態度が支持されず、
代わりに、表層形の反転関係しか持たない枠組みがまかり通るのは、何ら限定されてない状態の準備とそれが今回引き受けざるを得ない限定条件の割り出し、
これらの最大限化(抽象化具体化の不十分さ解消)から成る被限定最小化へと向かってない振る舞いでも何かを為してる事になってしまうからでないかと思います。
(疑似問題疑似解決への鈍感さや、問題の大小遠近への敏感さと決別するのに、
この被限定最小化をその体現でもある文末で言う実存で具体化するという内容へと、対問題を持ってく必要がある為、少なくとも上の志向は重大です。)
そうであるなら、哲学者や哲学的言説が持つ、現実への過剰否定過剰肯定の側面に対する、
つまり、理想(真善美や無限者含む)との距離自体を修正対象にしてる側面(場に合わせる加工を認めない絶対主義的傾向)や、
生じてる距離を不可避に生じる距離だけに限定する事なく許容してる側面(場にその疑似的性質込みで合わせてる加工をも認める相対主義的傾向)に対する、取り合う価値はないとの扱いが積み上がっていれば、
上で言う被限定最小化(あるいは、そのポイントを紡いだ歴史個々や思考個々で織る全体という構造)がベースになってる自由平等や主語述語から見て、限定作用に対し安易な自由平等や主語述語が、
安易でないかのように振る舞う文系空間の現状(振る舞えるパラダイム)も無かったはずですし、
限定を受けてないという点で表層形が同じである事をもって、検証で判明した通用してない部分を修正し限定通用性を脱した類と、検証を受けてないだけの類とが、
つまりは、内実の確からしさ差異が(場に置かれるものに対しても、場の露呈された実態に対しても)区別されない事態のまかり通る状況も無かったはずです。
(帰属修正余地有するものを大した理由なく放置してる有り様が、安易と見なされる文系空間と安易とは見なされない文系空間とでは、評価される知性や倫理や美意識も異なる以上、
内面におけるポジションや具体的有り様の割り振りが、例えば、通用してるしてない判定に響く通用についての行き渡っているいない感が、
林檎を数えられないのに蜜柑はできてるつもり的な原理不在、仮説改善の上限化に必要な具体化精度確保した検証情報に相当するものの獲得困難、
および、次善の策である感覚への加工を必要最低限に抑えるのに必要な、余裕の有無の局面変化に合わせた形式推移の精度不足、これらから場の疑似化部分を除去し切れてない個別性との整合になってる、
つまり、自分の個別性を根拠にした時点でたとえ実態に即してようとも偽装になる、
という帰属修正余地を意味する、外在場軽視系の自由がこれまで受けてきた扱いは、既存の文系権威の中身のなさを表してると考えます。)
逆に言うと、例えば、数を数えられる時と林檎しか数えられない時の両数えられるが持つ差分(通用してる具体形パターンの不足部分)である疑似解決が、
対象位置づけの背景にある世界観や世界像における井の中の蛙性として、有限者である為に必ず言えるだけでなく、
遭遇経験の差異からくる個別性帯びたものとして生じてしまう点を単に認めるだけな対他者(分かり合えなさの許容)が、
寛容さの内容としてまかり通ってしまう(取り込む個々具体に具体化精度を問うてきた生と問わずにきた生との区別が為されない)としたら、
その最も重い責任は、哲学者の肩書掲げてても冒頭の側面を糾弾してこなかった人達にあると疑えるわけです。
(ある現象からその原理を抽出する処理がそうであるように、責任の帰属関係の究明も帰属修正です。)
同様に、文脈から意味を特定する際、抽象物とそれが置かれる場の性質との統合として意味理解が生じてるわけで、
にもかかわらず、対テキストに際し、書かれてる内容なり引用の仕方なりに先の安易さが言える言えないと関係なく理解処理を済ませてる言動が、文系の知的上層の振る舞いとしてまかり通ってしまうのだとしたら、
数学で自然を説明したガリレオ以降、同種の他との差異要素捨象用いた抽象化具体化の不十分さ解消が、厳しく問われてきた理系を尻目に、
同種の他との共通要素捨象用いた抽象化具体化の不十分さ解消をパラダイムに持ち込む事をしなかった
(個別性が根拠になる局面との、つまり、文系との相性が悪い理解力を変えずにきた)哲学者達
(その解消が内容になってない類の変化不変化なり論理性非論理性なりを根拠とする正当化は認めない文系空間を構築しなかっただけでなく、
その解消である内実確からしさ確保に見向きもせず、内容と形態の結び付き洗練だけで満足して、表層拭っただけのその実態主義性に通用が行き渡ってる感覚えてしまう理解力パラダイムを、
哲学も矮小化させるだろうそれを、むしろ保全してきた既存の哲学者達)にその最も重い責任があると疑えるし、
世界の有り様が上の不十分さを持つ事(そこの解消具合に相当する、内実の確からしさ差異を区別できずに、表層形でしか判断できないパラダイムによって、
個別性を根拠とする場面で、限定作用に対し安易な生の結果の有限性形態を個々事情に反映させる事も許されてる状態)に由来するいらぬ負わされに対し、
戦える者も戦えない者もいる中、彼らが場の疑似でない個別性に即した割り振りの意味で過不足ない役回りを、
対いらぬ負わされに関して引き受けてくれてきたとはとても言えず、引き受けてくれていた場合との差分を、戦えない者は余計に負ってる
(持つ者持たない者の差に関係なく、課されてる条件の下での上限で繋がる世界、
言い換えると、理想を犠牲にする程度を最小に抑える現実に相当する、代替不可能な内外事情にしか応じない実存で繋がり、
内容と形態の結び付き洗練の結果でなく、その実存と整合させた結果の獲得喪失から成る世界、
例えば、反映される個々事情の疑似性が下がるこの方向性の取り込みによって、市場や民主制も実態主義に留まらずに済んでる世界であれば起きない事態)と疑えるわけです。