政治経済の肥大化を抑える働きする教育や知的空間の要件、早急に備えてほしいそれについて(+打倒ポストモダンに挑戦)
2020-3-002
共産主義は平等概念の解釈失敗、資本主義は自由概念の解釈失敗として、
場の疑似でない固有性に着目無視を合わせ過大反応過小反応を抑える処理なり、
過大反応過小反応の同時否定により着目無視を場の疑似でない固有性に落とし込む処理なりをもって為す、
平等や自由の中身の(プラスマイナスの符号によらないという通用領域持つ、振り回されなさ、囚われなさを確保した)再構成。
(場の疑似でない固有性に即した割り振りへの支持の意味でのフェアの、事実上の内面化でもって、3体以上の共有地悲劇問題に対処する方向性。)
大きい管理小さい管理の一方を望ましいとする見方から、管理が場の疑似でない固有性の発現を保障できてる
(内面や局面を含む各場の形骸でない尊重)かどうかへの、管理に関する論点の差し替え。
(その保障を上での平等に相当すると見た時の自由相当は、未来の不確実性への態度と想像します。
また、場の上に立ち上がってるものにおける場の本質にのみ合わせてる状態からの乖離に対しては、
代替不可能な有限性に、つまり、引き受けざるを得なさに帰属させた反応として、
代替不可能な内在事情外在事情にしか応じない主体像の下で、修正働きかけなり距離取りなりが選ばれるべきであり、
特定の否定反応を乖離部分や局面事情に関係なく持ち出したり、疑似化したままの内在事情外在事情を肯定否定の根拠にする事例に対しては、知的なものと見なす必要はないように思います。)
この二つ(反応管理の原理でもって歴史を紡ぐ際の構成要素)が、政治経済の肥大化対策の本筋でないかと推測します。
共産主義体制崩壊を見てバブル崩壊の影響力を味わって以降の日本で、今なお前者的試みすらないのは、
同種の他との共通要素の捨象を用いた抽象化具体化の不足を抑える(この意味で具体化条件を付し直す)能力を養成しない教育、
及び、その不足を抑えない(それは局面がその疑似でない性質をもって決める事です、それは疑似でない内外事情にのみ応じる主体像が決める事です、
この種の指摘が生じない)どころか十分に知的なものとして認めてしまう文系空間が、
対象(自己や概念込み)の有り様を検討する能力を、形骸化させてる(いらぬ特化はじめ、いらぬ飛躍を見出せないレベルに留まらせてる)からでないかと疑います。
実際、大学教育は養成してません(哲学科卒すら、自他の思考に対する上の指摘を持てない、
例えば、彼らが理解力なり、民主制や市場のような実態主義的枠組みなりを、
上の主体像からの乖離が除去対象になってない点をもって批判するなどは現状期待できない)し、大学受験も養成に関係してません。
文系者に関して、自身の上で言ってる抑える能力を損なわせない配慮持ちつつ点数を取りにいくのと、
その配慮を持たずに点数取りに自己を特化させる(当然、こちらの方が割り引きがない分、点数獲得的には効率が良い)のとが、
区別されない混同状況(内実の確からしくないものと確からしいものの混同状況は、ドーピングによる金メダルのような、奪われの余地発生を意味する)で、
後者が自身の受験体験の注力ぶりを何らかの肯定根拠に用いるのは、奪いの類ですし、
結果重視となると、内実の確からしさを向上させる(内実の通用を行き渡らせる)上の能力の保存を期待するのは酷でしょう(その上、大学がここを補うわけでもない)。
また、小中高の学校教育において先の主体像(いらぬ特化、つまり、いらぬ限定を避ける反応様式でもって歴史を紡ぐ際の構成要素)と獲得(標準化や多様化)とを整合させない
(獲得や喪失に対し、その人にとっての内実の確からしさを求めない)弊害として、
利得への過大評価(及び、それ踏まえての損失や苦労への過大評価)もあるように思われます。
通用が行き渡ってる感のする方を選ぶに値するものと認める一方で、全体枠の取り違えによる通用してるしてないの判断のズレが、人間の不完全性故に常に起きてる件について、
全体枠に相当する観点(通用領域の広狭と確からしさとの相関にとっての置かれる場、具体化条件)を、
現状可能なだけ確からしくする働き(つまり、具体化精度最大化、文系的にはフェア志向)として機能してる時、知性は形骸化してない。
(方法的懐疑がその相関を表層においては徹底し、かつ、主観に対する同種の他との共通要素の捨象の必要性は提示されてない、
この近代始点の特性が近代以降修正されてない点に、文系のいらぬ限界の原因があるように思われます。)
これと同じ構造が倫理にも言えるとすると、つまり、帰属の修正事例をその見た目から悪と見なしたり、帰属の操作事例がその見た目から善として扱われる事態の原因である、
確保対象は望ましい表層形でなく、確からしい内実であるとの前提を持たないままの倫理持ち出し(形骸倫理)に対する、
修正処理も話は同じで、重なってさえいるとすると、形骸倫理は形骸知性をも意味してる。
この観点において、上で言ってる整合促しを持たない既存の教育(いらぬ特化を強いてる形の既存の教育論)は、救済的介入との自覚や自負がどれほどであれ、
損得感覚(当然、政治経済に影響ある)はじめ、形骸倫理形骸知性な地平に子どもを引きずり込み、
量的差異のみで何かが十分に成し遂げられた気になってしまう(内包されてるいらぬ飛躍は認知対象外な)人間を量産してるだけと言える為、
既存の教育に自分を特化させてしまった文系者は、先の主体像への志向を持たせる事で形骸知性
(形態を局面と紐付けずに決めつけるなど、現象を抽象物と具体化条件から成る枠組みで捉えられない状態)
から解放させてあげる(政治経済の肥大化対策でもある)べき存在と見なせます。
この地平解放は、望ましくない表層形に対する受け止め過ぎ(パニック的懲罰込み)や受け止めなさ過ぎ(余裕があってなおの次善の策)を抑える
(それらを善悪像構築に反映させるのを抑える)という対有限性一般にも拡張可能と期待します。
また、対象とそれが置かれてる局面との関係(乖離程度)を見ずに対象を捉える認知傾向は、
具体化条件自体の無視による抽象物と具体物の混同常態化を齎してると言えますから、
その傾向持つ人が、例えば、存在の抽象物と具体物の差異に関わる概念なり処理枠組みなりを持ち出してたら、
林檎を数えられないのに蜜柑は数えられてるつもり(数を数えられないのに蜜柑を数えられてるつもり)な水準で捉えてると見なせます。
(これは、対存在での具体化条件付し直しを個々具体とした場合の、抽象次元の通用領域の狭さが、
ハイデガーに対する修正点とされてれば起きなかった現象であるはず。)
同様の事が理想と現実の関係における、理想を割り引く程度の過大過小を抑えてるつもり感にも言える為、
その認知傾向にあっても文系の知的上層になれてしまうこれまでの教育環境や社会の知的環境は、
政治に影響力を持ってしまうと政治を都合の押し付け合いに事実上矮小化させてしまう人を、
社会に送り出したり影響力持つのを許したりで、肥大化の原因になってると言えるでしょう。
(自己管理や人生といった個人規模も当然含む、管理や歴史の論点を、表層形の偏差および受ける扱いの制御から、
受ける扱いの表層形に振り回されない内実確からしさの、具体化条件付し直しによる確保へと差し替える上で、
先の主体像への志向はそこに実質を与えてくれるもの、つまり、具体化条件付し直しを、都合が悪くなれば飛び移れる飛び石として具体化条件を捉える都合問題、
ひいては、都合の押し付け合いの強弱秩序へと矮小化させてしまうのを防いでくれるものと疑える。)