3567文字、デカルトとカントに関する功罪の分別ミスの影響について、善悪という枠組みに対する検討も付けて
2024-2-006
ある人にとって問題Aは重大で問題Bはそうでないという時、
その人が、問題状態というものの抽象度を上限化させ、そこから代替不可能な内外事情にしか応じない実存を具体化条件に、具体的問題を切り出してるのなら、
その価値判定は修正余地がないという意味で受容に値すると言えますし、そうでないのなら、その価値判定は修正余地があるものとして扱われるべきです。
文系的問題は個別性が根拠になる局面での話ですから、XにもYにも言えるものをXに固有のものとはしない処理が不全である人は、
文系的問題に対して根拠を取り違えてしまうという自分に関する問題を、問題状態という抽象像に加える事ができない事情で、上の上限化を果たせず、その処理が必要な上の実存を生きる事もできません。
つまり、その処理不全が言える文系権威によって為された文系的問題の価値付けを見聞きしようとも、真に受ける必要などないわけです。
ところで、デカルトもカントもその処理が不全であるのは明らかですし、既存の文系空間は、
個別性が根拠になる局面において、個別性を疑似化具合不問で根拠にするデカルト的処理不全、個別性捨象を持ち込むカント的処理不全、
この両者の同時否定を未だに達成してないので、真に受ける必要のない価値付けが各問題に付されてると見なせます。
もちろん、デカルトにおける通用してる領域の広狭と確からしさとの相関を根拠として持ち出した点が、
自我の個別性にはこの相関を適用しない抽象度不足、という功罪の罪部分(根拠の取り違えの定着)を切り離しつつ、
また、カントにおける理想を割り引かざるを得ない現実という枠組みを認識にも持ち込んだ点が、
局面の要請とは関係ない共通性立脚(個別性捨象)、という功罪の罪部分(根拠の取り違えの定着)を切り離しつつ、
共に引き継がれていたなら、対自己含め仮説であり続ける対象理解における論点は、
より確からしいもの(通用領域の広いもの)が取って代わる運動性の受容阻害程度、
さらには、仮説と検証の関係(検証情報欠損の観点から見た量問題、改善改悪関係の観点から見た質問題)を踏まえた、抽象化具体化の交互反復の下での精度
(これが最大である時、交互反復によって可能になってる同一性と変化性の同時達成は、表層の変化不変化具合によらず受容に値する)となっていたはずです。
(情報欠損に、代替不可能な内外事情にしか応じない実存の反映とする事で修正余地なさを持たせる処理は、
内外境界発生意味する有限性に上の運動性を十全に利かせたものであるその実存をもって、上の運動性に対峙する事で、
言い換えると、その実存を上の運動性の受け皿とする事でその受容阻害を最小にする理想現実関係としての抽象物具体化条件関係に包含されてる。)
つまり、抽象化具体化の精度が上限でありさえすれば解決状態として扱う態度(対存在や対輪廻にも拡張したこれ)の下で具体化精度を論点にしていたなら、
疑似問題(抽象次元を仮説として見た時の仮説改悪をもたらすもの)として扱われてるはずの、場に合わさない絶対主義、場にその疑似化込みで合わさせる相対主義、
さらには、そのどちらともとれる次の二つの弊害、内在不問外在軽視な典型自由観
(自己において生じる現象を行動原理とその具体化条件に分けた上で、両性質の疑似化部分に応じるのを避け、疑似でない部分のみ引き受ける実存方針とバッティングし、
その流れで、種レベルでの行動原理の通用性向上の仕組みである性別システムが、
代替不可能な内外事情にしか応じない実存的生をもって、性別性に振り回されるのを修正余地のない振り回されだけに抑えてる個人の集積の下で運用されるのを損なってる、
という意味で自身の形式であるシステムの弊害の放置を引き起こしてもいるこれ)の強化というデカルトの弊害、
局面固有性や現実事情をくまない典型理性観(例えば、明晰曖昧スペクトラム上の点についての局面と齟齬のある選抜などの硬軟有り様を、受容するよう外界に強いてる事態を防いでくれる、
局面の疑似でない個別性に内在物を合わさせる具体化作用とバッティングする為に、
局面と着目無視との合致問題を、ひいては、人間性に他ならない次元設定自在性に振り回され自身の形式を生かせない持ち腐れ問題を、事実上埋没させるこれ)の強化というカントの弊害、
加えて、両弊害の二択縛り(特に、不当合理への批判にかこつけて過剰特殊を押し通すロジックやその攻守反転ロジックから成る主張を、
例えば、二項対立の否定は、表層形反転な関係を、内実が帰属修正の上限に相当する確からしさを持つなら表層形は気にしない態度をもって無価値化するのではない内容である場合、前者ロジックに他ならないのに、
未だにその内容の二項対立否定を知性倫理美意識に適ってるかのように発信するなど、
文系権威がまき散らし続けてる事態)、冒頭の修正余地ある価値判定の有害形であるこれ、
これらが今なお見られる文系空間の現状は、デカルトやカントへの言及の多さにもかかわらず功罪の分別ミスが正されてない現れと解せるように思います。
ここで、自他の行為を善であると見なす仮説や悪であるとみなす仮説について検討すると、
そもそも真善美は理想ポジションであり、現実(有限者の認識場なり状況なり)によって割り引かれるものである為、
割り引きを認めない絶対主義、修正余地なさを持たせてない割り引きまで認める相対主義、この両者の同時否定と整合してない善悪枠組みは、
抽象化具体化の不十分さ解消(限定を受ける前状態の準備とそれが引き受けざるを得ない限定条件の割り出し、これらの上限化)を、
その時点での解決状態(自分と対象の関係によらない受容条件)として扱ってない証拠です。
認識は、通用してる領域の広狭と確からしさとの相関という、肯定も否定も保留も依拠してる為に逃れられない第一原理を、何らかの観点の下で持ち出してるに過ぎないので、
上の証拠(対人で言えば、在るだけで存在立脚であり、自身の感覚や感情を根拠にするだけで個別性立脚である中、存在するのと引き換えでない要素まで存在に帰属させてる個別性と、
ひいては、多様性はじめ存在尊重の名の下に帰属操作物の受容を強いてる事態と決別するのに必要な、
代替不可能な内外事情にしか応じない実存方針の反映であるかどうかを対表層形の論点にしてない以上そう言える、表層形断罪含む表層次元での肯定否定)は、
確からしいものに対してそのようには扱わない事態を引き起こしてる観点設定ミスの証拠
(それこそ、局面と着目無視との一致不一致に関係なく差別かどうかを判定し、
一致の下での言動まで否定したり、一致の下での言動以外まで肯定するのと同次元である証拠)でもあります。
認識に対して我々ができる介入は、観点設定自体へのその相関の適用強化だけですから、
確からしい観点設定の下での判断ほど受容に値し、そうでないほど修正余地がある、という内容と整合してない善悪設定は上の同時否定とも整合してませんし、
観点設定が代替不可能な内外事情にしか応じない実存の反映である時、その修正余地なさから、観点設定は確からしさの上限と見なせます。
また、本筋と次善の策との関係を、余裕の有無等の状況の個別性に即させてない
(即させる能力のない者が運用してたり、即させる能力のない者に運用させようとしてる)のなら、
道徳というマニュアル(個別性捨象なので個々の固有性に寄り添えない分、観点設定の確からしさを欠く)は次善の策にせよ、上の同時否定と整合してません。
(真善美の反転形や、真善美とその反転形の同等化を志向してる場合、真善美の通用領域は狭いのでより広いものを選ぶと言ってるに等しい為、
より確からしいものが取って代わる運動性の受容阻害を最小化してないなら、取り合うに値せず、
最小化してるなら、先に見たように上の実存を生きてるはずなので、理想を割り引く程度を最小にしてる現実でもあるその実存を生きてる以上、真善美への形骸でない志向と中身が同じ対真善美と言え、
倫理をマニュアルに矮小化した上で反動反発してるだけの枠組み、言わば、先の差別の話での二択に地平が閉じてるパターンも含めて、
結局のところ、認識に対する抽象度不足故のいらぬ対立生みだしに思われます。)
以上から、行為に対する善悪認定が、過剰特殊(修正余地なさを持たせてない個別性)と不当合理(局面の要請ではない個別性捨象)、
この二択でしか対象現象を解釈できない地平状態にある人によって為されてる場合、
その人の有する権威具合によらず、中身のない取り合うに値しないものと見なして良く、
そのような認定を踏まえた言動は、張りぼてを中身があるかのように外界に扱わせる側面を持ってしまうと捉えましょう。