4619文字(本文3025文字)、他者に対して閉じない、という話が有害化するのを防ぐ為に必要だろう理解について(カントへの疑念を付しつつ)
2023-12-002
エゴイズムを批判する際の論点は、自己の肥大化部分に限定すべきと思います。
(需給事情が肥大化してたとしてもその肥大化部分を修正余地として扱えば良いだけであって、市場自体を否定する必要はないとする態度に同じ。)
例えば、共有地の悲劇構造を踏まえるなどで、他者や全体と向き合うだけでは、死と向き合う生が、漫然からは脱せるにしても危機感利用
(例えば、このスタイルの勉強は、教育内容の歪みまでも受容しないように教育と付き合う方向性を上限化させない)
と親和的なせいで肥大化からは脱せない(哲学に実例あり)のと同じで、上の内包を防げない気がしますし、
肥大化してない部分まで否定する事により(これは対他者か対自己かの違いこそあれ、駆逐と同類の発想であるのに、存在尊重を自負してるケースすらある)、
自己を律したり犠牲にしたりの行き過ぎ(内実が帰属修正とは関係なくなるという意味での形骸化で、哲学に実例あり)が生じるだろうからです。
(修正余地のある帰属関係から別のそれへと差し替えるだけの内容に過ぎないものを、倫理と信じて疑わない人は、
奪われる側から奪う側への立場反転をもって解決したと判断してるのに等しく、
奪う奪われる関係の発生の点では反転前後で変化してないと現象解釈していたなら、何ら解決してないと判断するはずなので、
上の行き過ぎに疑問を持たないのは、現象解釈に際する抽象度の低さの現れと解せます。
ところで、敵味方の分別を糾弾してる場合、帰属操作によって奪われる側と奪う側という関係が生じるのを認めていたとしたら、糾弾者自身も糾弾対象と大して変わらないと思われるのに、
上の行き過ぎに対する賛同なり擁護なりは、認めてるのと事実上同じであって、
これは、個々の内実が帰属修正的かどうかと関係なく、単に資格を開くだけな内容の理論が採用に値しない理由でもあると考えます。)
獲得喪失を代替不可能な内外事情にしか応じない実存と整合させるいらぬ特化阻止、
あるいは、利己利他に対するそれらを個々具体としてる抽象次元に遡ってからどちらになるかは局面次第とするタイプの上下論否定
(競争協調で言えば、それらを形式と見て、場と形式との整合の観点から評価する枠組みに落とし込む処理、
場と無関係に形式を正当化し、泣き寝入りを強要してくる人達とはバッティングするそれに相当していて、
同じ上下論否定でも、場の性質が疑似化してる下での場との相性を修正する帰属修正とは関係ない、
したがって、存在しにくさの内の疑似部分に由来する疑似問題に取り組まされてる事態から解放できないという意味で、対劣勢に表層的にしか関われないなど、
単なる両極持ちでは、局面との齟齬が両極にとって肥大化部分になる)、
これらを肥大化対策の本筋と解せば、これらは抽象化具体化の不十分さ解消に他ならないわけですから、
上で見たような過不足は、理想を割り引く現実というプラトン時点で為されてる指摘に対応する解決状態として、
その不十分さ解消(割り引きに関する不可避の下での最小化であり、届かなさ自体を安易に根拠にする相対主義的態度ではもちろんなく、
優勢劣勢の修正余地をなくす試みに重なる)を、プラトン以降の哲学者が提示しなかった弊害の一種に思われます。
また、エゴイズムの類を批判する理由として、他者に閉じてる点を挙げてしまうと、
個別性の疑似化を許してる為に帰属操作に他ならない類としての、存在する以上こうならざる得ないという存在立脚ロジックの解放でもある、単に資格を開くだけ系の権威化に繋がってしまいます。
実際、救済資格を開いた(立場反転願望でなく資格の限定性を修正対象とした結果、立場反転問題が残存したように見える)キリスト教が、
その寛容(解決状態としての上の不十分さ解消を待つが、満たせば表層形によらずOKな寛容さとは別物)な理念の下でも秩序が成り立つよう、
中世において現実との齟齬が大きくなって以降も諸々縛り続けた経験を経てなお、共産主義が現存し
(財産問題としてあったものが原論やローマ法に繋がり、後者の感性はキリスト教の救済感覚や支配感覚による開閉を受けつつ、
ルネサンス以降の数学や財産権、双方の役回り含めた発展や絡み合いを経て欧米による世界支配に至ると考えると、
確かに財産視点での対歴史自体は必要なのかもしれないとはいえ、国単位に限らず地域間や産業間や階級的なものの間の連動を、現実との齟齬の下で強いているいない、
言い換えるなら、優勢劣勢の修正余地の有無を見ないせいで、優勢劣勢有り様に振り回され過ぎてしまい、
場の性質が疑似化してる下での場との相性を真に受けるのに加え、優勢5なのに優勢10、劣勢5なのに劣勢10かのように振る舞う的帰属操作が生じているいない、
という観点を埋没させる類の財産視点をもっては、社会性を生かし切れないと見るべきです)、
ドーピング選手が勝つと明らかであろうともその参加を死守する的な、したがって、世界の積極的茶番化な内容の主張を、
文系権威が未だにまき散らしてるわけで(これは、場が問うてる差異と実際に取り出されてる差異とのズレを防げるレベルの選抜能力や、
局面と着目無視の合致への志向の獲得要請が、文系権威へと至る前後に介在してない、
ひいては、仮説選抜能力を上限化させてない者が影響力を持つ結果として仮説改善を阻害する力が既存の文系空間には備わってる、との事実を意味するはずです)、
少なくとも、上の類の存在根拠ロジックを通してしまうだけの帰属操作への鈍感さ
(帰属修正の働きの局面に応じた側面としての知性や倫理や美意識の機能不全)を既存の文系空間が持ってる現状では、権威化は容易いと考えるべきでしょう。
なので、エゴイズムの類を批判する理由としては、人間形式に振り回されてる(生きし切れてない)現れであるから、
言い換えると、人間形式を(人に共通するものをもって事態を収拾できるとするカント的発想には、
付き合うと理論面であれ実践面であれ、振り回されているいない問題を埋没させる行き過ぎた合理化に繋がるので、
取り合わない事にして)持ち腐れさせない方向に向かえば、それらは同時に解消される、そう解するべきでないかと考えます。
ここで言う人間形式は、次元設定自在性と種の性別システム(種で異なる出産時の状態や出産後の関係についての方針込み)の事なので、
自在故の振り回されを抑えるような確からしい原理として、局面と着目無視の合致を、
赤ちゃんとの直接性に由来する不安定(自己価値の確定と世界から実際に受ける扱いとのズレ)や間接性に由来する不安定(自己価値の不確定)の解消欲求に、
振り回されるのを抑えるような確からしい原理として、代替不可能な内外事情にしか応じない実存を、
対形式に採用すれば、抑制と同時に解消されると期待するわけです。
ただ、個別性が根拠になる局面でも同種の他との共通要素捨象が軽視されてる文系観、
かつ、能力なり情報なり可能性なりの獲得を上の実存と整合させるつもりのない獲得推奨、
これらが既存の教育について言える為、先に見た文系空間の歪みの原因でもあり、
同種の他との共通要素捨象を用いた抽象化具体化の不十分さ解消状態が文系的局面における解決を意味してない原因でもある、
この二点の修正が上の採用と基本的に重なってると見て、この二点を修正しない限り、採用も事実上果たされないと捉えるべきとも思います。
注1
上のカント的発想の話を認めるとして、次の2点は内実の確からしさへの言及なので、その話における埋没してしまう側面に相当します。
自身の発する言葉を疑似でない自己に帰属させる、この時、疑似でない自己は代替不可能な内外事情にしか応じてない実存とし、外在事情には個別性が根拠になる局面も、ならない局面もあるとする。
抽象化具体化の交互反復の結果、言葉の意味合いや死語感等のニュアンスが変遷するだけでなく、理念系概念の内容をはじめ仮説改善の側面も生じるとして、
抽象化具体化の不十分さが解消されてるほど、前者は修正余地がなく、後者は形骸化してない、
これが、どこに着手するか、どういう状態をもって解決してるとするかという問題解決スタイルの外在系であり、言葉にとっては文脈として働く文化にも言える。
ここで、仮にこの2点を埋没させながら、他方で世界有り様像の内容の帰属修正には積極的であるとすると、
言わば、林檎を数えられないのに蜜柑はできてるつもり的原理不在が、その哲学に言えてしまいますから、
辞書系か形式論理学系かはともかく、共通性に対する思い入れの強さは哲学を矮小化する方向に働くと疑えるように思えます。
注2
ニーチェに関しては現時点では、立場反転願望を弱者的意志とした時の強者的意志として、
何ものにも(体系的秩序にも真善美にも自己以外の救済者にも意味性にも)頼ってない生そのものレベルの純度の意志を採用するも、
自己の肥大化(帰属修正が先立ってない帰結)の観点では両者に違いはない(生を一番上に置くと、生への超越的立場からの評価を持てないのに加え、
外在による割り引かれの忌避に、場に合わせた具体化の一種としての仮説検証の忌避も含まれてしまうせいで、仮説改善の意味での自浄も内在できない)という事態に陥ってる、といった感じの位置づけを考えてます。
また、場の持つ偏り(個別性)がその方向に、場に置かれたものの有り様を整合させてる、
この観点(場の性質の疑似化具合の論点化込み)を内面世界にも外在場にも見る抽象化をもって捨象されるものとして、意志概念立脚なり主体性概念立脚なりはあるとも考えます。
この捨象は、外から与えられた価値体系(確からしさ)を捨てていった上で(捨てていくほどその掴むもののなさから、言わば、溺れてる的状態に近づくと想像される)、
価値体系を再構築する際の原理に、通用してる領域の広狭と確からしさとの相関にしか頼ってない状態が形骸でなくなるよう
(方法的懐疑や現象学系などの、剥いでいってなお残るものロジックが失敗してきた轍を踏まないよう)、
どの観点の下にこの相関を持ち出すか、という次元設定にもこの相関を適用した結果(囚われてなさを導入した結果)の、
局面と着目無視の不一致に対する否定的態度を採用した場合と、整合的であると期待します。
実際、局面と着目無視とが合致してるかどうかによる評価、および、局面と着目無視の合致の下での具体的扱い、これらから成る枠組みと、
代替不可能な内外事情にしか応じない主体像(抽象化具体化の交互反復として見た歴史性含む、
同種の他との共通要素捨象を用いた抽象化具体化の不十分さ解消状態)との遠近による評価、および、主体に対する置かれてる場の疑似でない個別性に即した扱い、これらから成る枠組みとは、
前者を文理関係(個別性が根拠になる局面では同種の他との共通要素捨象、個別性が根拠にならない局面では同種の他との差異要素捨象に確からしさを見る次元設定)へと拡張しているいないの差でしかなく、
その意味で自由平等関係を、あるいは、責任概念の中身を厳密化しているいないの差異
(例えば、内在的問題解決スタイルである自我へのそれを失う事に対する過大反応に繋がる固執をも、
フェアを越えては自身すら助けない方針をもって抑えにいく試みにおける厳密さの違い)でしかないなら、そう言えるはずです。