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3298文字、文系者に要求すべき仕事内容について

2024-8-003

自分が能力なり情報なり可能性なりを獲得する場合に、代替不可能な内外事情にしか応じない実存と整合的なものに限る方針と、
救済であれ需給成立であれ、代替不可能な内外事情にしか応じない主体像の反映でない需要の実現を過剰達成として扱う態度とは、
他者込みの話かどうかの違いしかなく、存在するのと引き換えでない要素を存在に帰属させた帰属操作について否定対象としてる点は同じです。

帰属操作Aを認めないのに帰属操作Bは認めるのであれば、戦争によって奪うのは認めないのに、
平和によって奪う(場を荒らすなという理由で泣き寝入りさせる等)のは認めるようなものであって、着せ替えで満足してるだけ(理念がこの内容をしてる場合、
帰属関係の操作に利用される隙を潰してないという意味で通用が行き渡ってないものの持つ確からしさを、行き渡ってるものの持つ確からしさに偽装してる形になる)ですし、


個別性に関する帰属修正A(上の方針や態度)は否定するのに、個別性に関する帰属修正Bについては自負がある、
という内容が文系知性(原理の割り出しも分類の体系化も帰属修正である点、取り違え最小化された個別性との整合化が文系的な論理性である点、
これらを認めるなら、個別性に関する帰属修正の一種)に関して言えるのであれば、

数を数えられるなら林檎も蜜柑もまだ見ぬものも数えられる以上、その人の文系知性は、
原理まで遡らずに家電を叩いて直してるレベルの対応に留まってると見なせます。



ところで、根拠の遡りは、肯定否定も依拠してる、通用してる領域の広狭と確からしさとの相関を、
持ち出す際の観点に対してもこの相関を持ち出してる状態が限界点であって、

この限界点に立ってない人、言い換えると、代替不可能な内外事情にしか応じない実存の反映である観点を採用してない人はすべて、
対立関係だろうが上下関係だろうが、防げる類の妄信を根拠に肯定否定してる点では同類です。

この意味で認識結果も含め、代替不可能な内外事情にしか応じない実存と整合的でない獲得が修正対象として扱われない
(帰属操作が許容されてる奪い合い世界の否定がこのレベルで為されない)のは、
抽象不足や具体化条件検討不足が、理系空間では近代以降修正対象になってるのに、文系空間では近代以降も修正対象になってないからです。

(例えば、出生や性別に関する倫理が、置かれてる場に自身を通用させ続ける存在課題について種レベルで展開されてるものと、
それに対する外在的問題解決スタイルである文化や内在的問題解決スタイルである自我による加工から成る、

抽象化具体化不十分さ解消の枠組みと無関係に、にもかかわらず、哲学という権威を付しさえして語られるのもこの弊害ですし、
そもそも、不当な帰属関係を妥当な帰属関係に修正する働きとして知性倫理美意識を機能させる配慮が不十分、
ひいては、より確からしいものが取って代わる運動性の受容阻害最小化が不十分であるのに、自由や個性などの帰属の話に取り組んでる事態からしてこの弊害です。


ちなみに、理想と現実の間の上下論の採用は、宗教による解釈含むプラトンアリストテレスの文脈であれ、人間を根拠にしてるカントニーチェの文脈であれ、
善悪イメージが、理想を割り引く程度を最小にしてる現実の達成と阻害に重なるのを妨げる為、

有限性が与件である時の、通用してる領域の広狭と確からしさとの相関踏まえた被限定最小化が機能してない証拠、
つまりは、より確からしいものが取って代わる運動性の受容阻害の証拠であり、

理想を割り引く程度が最小となるよう現実を成立させる試みは、現象を内在性質と外在性質の統合物とした時の両性質の取り違えを最小にする帰属修正、
仕方なさが偽装されてないが故に罪なり責任なりを問えないレベルで受容に値する地点への志向であり、
より確からしいものが取って代わる運動性の現れであるこれを、抽象化具体化の不十分さ解消として捉え直したものの一種なので、帰属修正が先立ってない証拠でもあります。)



修正対象になってないのは個別性が根拠になる局面でのデカルト的誤謬(個別性の取り違え許容)とカント的誤謬(個別性捨象)の二択枠組み
(資本主義と共産主義、人権と主権、ローカルとグローバルといった疑似対立を踏まえつつ、
一方の批判にかこつけて他方を押し通すロジックの提示をもって仕事した事になる環境)によって、

同種の他との共通要素捨象を用いた抽象化具体化の不十分さを、十分な状態(表層が未解決や失敗であっても良い)に持っていく内容
(これを理想が割り引かれる程度を最小にしつつ現実を成り立たせる処理とした時の、

この現実が点として紡がれてる歴史と実際とのズレ部分を修正余地として、持続なり、展開性なり、存在課題の達成具合なりを評価する内容)が仕事として認められてないからです。
(もちろん、環境が都合の良いものだろうと悪いものだろうと、外在場の本質にのみ合わせる具体化精度上限化を論点にしてないなら、

その人の対環境は現実の過剰肯定か過剰否定の二択に、つまり、理想を過剰に割り引くか、現実を過剰に割り引く二択の意味で現実と理想の間の上下論に、
さらには、先の事情からそれは帰属修正が先立ってない証拠である為、奪う有り様の証拠になってしまってると言えます。

同様に、内外性質把握の取り違えに対する修正働きかけは、受け入れられない場合でも、
差し伸べられてる手を払い除けた形に持っていく事によって責任擦り付けの余地を潰す帰属修正ではあるので、

外在場の本質に即した役回り振り分けに関係なく、無駄だからという理由で糾弾なり修正法提示なりを為さないのは、
帰属修正が行動原理になってない、したがって、奪う有り様をしてる証拠です。)



冒頭の方針を、できるできない(成功失敗、問題を放置しているいない)への大騒ぎである過大反応的囚われ、
見て見ぬ振りである過小反応的囚われからの人生(小学期前半で既に囚われ得る)の解放として被教育者に要求するのもその内容であり、

例えば、この要求によって可能になる平等、つまり、課されてる条件の違いによらず条件上の最善
(理想を割り引く程度を最小にしつつ現実を成り立たせてる状態)をもってすべての人が繋がってる平等(言わば、上で言う点が紡がれてる歴史の空間バージョン)、

戦える者が戦える範囲で戦う事を求めてる要求から見た、過大要求および戦えない者への過大救済も、過小要求および戦えない者への過小救済も否定する為に、
助けられる者として生まれてきて助ける側に回り、また助けられる側に至る構造から搾取の側面を取り除くものでもある

(実際、外在場の取り違え最小な個別性に即した秩序への志向は、場に即してないとの意味で肥大化した優勢劣勢有り様から成る役回りとしての搾取を小さくするはずです)これと、
バッティングする内容の平等観(不平等の訴えや正当化)がまかり通ってるのは、文系者の形骸な仕事故であると解しましょう。



帰属操作的な人と帰属修正的な人が同じ権利を持つ時に生じてる平等は、先に見た付け込まれる隙を持ってる
(通用が行き渡ってないこの種の平等に修正余地を見ない場合、限定されてない状態を準備するという、抽象度不足解消に必要な能力が機能してない)為、
帰属修正的な人を増やす働きの上限化が、権利概念の有害性最小化の条件と言えます。

これが、個別性捨象(数なり区別できない粒子なり)を前提とする科学にも言えるとすると、
理系に内在する危険性を最小化すべく、帰属操作的な人が影響力を持ちにくい有り様を文系空間がしてる必要があるのに、

主体にとっての内在場や外在場の取り違え最小な個別性と、場の上に立ち上がってる秩序との整合
(例えば、明晰と曖昧を両極とするスペクトラム上の点選抜が場の本質の反映になってる状態)への貢献が文系者に要求されてない

(通念的論理像に重なる理系論理への感度を理系者が要求されてないのと同じ事態であって、文系空間自体が基盤を欠いてる)せいで現状、
帰属操作的な人でも権威を持つ事が可能になってるとの理解も押さえましょう。

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欧米文系からの解放哲学。代替不可能な内外事情にしか応じない実存を解決状態として扱う主義。
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