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3641文字、対ルールを軽視する言動に付き合わないでいる為に必要なものについて

2024-5-005

搾取がある構造(優勢劣勢有り様が肥大化する環境)の中に放り込まれたとしても、そこでのルールをそのまま内面化してしまうのを避けるには、
ルールが持ってる不当性(帰属操作の側面)に付き合わないで済むだけの、対ルールの評価能力が必要でしょうが、
哲学はじめ、その能力を齎してくれるかのように見えるものからしてこの内面化の問題を抱えてると見るべきです。


実際、個別性が根拠になる局面での個別性捨象を不当合理、同局面での個別性の取り違え最小化の欠如を過剰特殊とした時の、
過剰特殊への批判にかこつけて不当合理を押し通すロジック、不当合理への批判にかこつけて過剰特殊を押し通すロジック、

これらを文系の権威が未だに発信し続けてるわけで、例えば、人権や主権が一方では奪われるのを防ぐ働きをしながら、
他方では奪う根拠にもなる(したがって、帰属修正の体系に組み込まれてるとは言えない)のは、

個別性が根拠にならない局面では個別性捨象を、個別性が根拠になる局面では個別性の取り違え最小化(存在するのと引き換えとは言えない要素まで存在に帰属するのを防ぐ処理)を観点に組み込む、
というルールからの乖離を、文系者が教育や学問を通して内面化してしまうからです。


(有限者が、通用してる領域の広狭と確からしさとの相関、これを肯定否定の判断根拠にしながら、自分に対してできるのは、
通用が行き渡ってるという内実を持つ限定性として自身をあらしめる事だけ、つまりは、

雨が降ろうと槍が降ろうと存在する以上は引き受けざるを得ない要素だけから成るよう、
自身の存在に帰属してる要素のみから成る有限性形態から見た過不足を縮減する事だけであり、

したがって、それしか自他に対し責任を負ってない、もっと言うと、そのような限定性まで含めて有限性に否定的反応を持つ必要も、
そのような限定性を超えた部分まで含めて有限性に肯定的反応を持つ必要もないと言えるのに、上の内面化有り様はこの方向性、

理想を割り引く程度を最小にする現実である代替不可能な内外事情にしか応じない実存をもって、
無限者や真善美などの理想ポジションと対峙すべく、帰属修正を理想との対峙に先立たせる試みも包含してるこれを潰してる形です。)



通念的な論理像(個別性捨象によって普遍通用性を、ひいては、確からしさの上限を得るスタイル)は、文系的局面では不当合理になってしまいますから、
客観性(個々主観に対する同種の他との差異要素捨象)には価値があるとの刷り込みの時点で既に問題は発生してる(局面次第なものを局面無視で規定する短絡さ、

具体化精度の低さは検証能力の不全を意味する為、精度の低い実験結果まで取り込んだ仮説しか持てない的な意味で、
原理なり本質なり、抽象次元に関する仮説の改善不全にも繋がるそれも刷り込まれてる)と見て、


主観客観対比が前景化する前から、局面と着目無視との不一致に付き合わない態度
(取り上げるに値する差異、値しない差異の分別を局面に委ねた上でその分別枠組みに自身や対象を落とし込む方針を支持してる立場とも言える為、
場の性質が価値を、ひいては、場に置かれたもののポジションや具体的有り様を決めるとしつつ、場の個別性の取り違えが最小化されてるかどうかだけを問題とする態度、

競争協調関係などの振り分けられた役回りに応じる応じない、あるいは、空気を読む読まない、そうした表層形を変える発想でなく、
内実の確からしさが上限である時の表層形が選ばれるべきとし、場で割り振り原理になってるものの確からしさを論点とするのに必要なこれの一種でもあり、また、これを可能にするものでもある)の獲得が、
帰属操作したりされたりを最小にしたいのなら、必要になってると考えましょう。



ここの不一致への鈍感さは、例えば、利己利他について、それらを個々具体とする抽象次元に遡り、そこから局面に合ったものを切り出す、
という抽象化具体化枠組みにおける抽象化具体化の不十分さが解消されたものとして、
利己利他を両極とするスペクトラム上の点が選ばれる事を失敗させるわけです。

ところで、真善美は否定され得るという発想は、通用してる領域の広狭と確からしさとの相関を踏まえて、それらの通用領域に外側の存在を見てるのに等しいと考えますが、
通用の行き渡ってるものが、したがって、外側を持たないものが、局面次第では真善美の内の真的側面のみが前面化した姿を採る事もあるに過ぎない、


かつ、有限者は真善美そのものを掴まえられずに割り引いてしまう、この時、
割り引きを最小にする有限性形態は、代替不可能な内外事情にしか応じない実存の反映であるケース
(この実存と獲得喪失を整合させる事で、獲得喪失に修正余地のなさという受容に値すると言える為の条件を持たせてるケース)で、局面事情は内外事情に含まれてる、

こう捉えると、外側は抽象化具体化の不十分さという問題に置き換え可能な上に、
利己利他の例と同じ構造を持つとも言える為、上で見た獲得は知性倫理美意識を機能させる条件とも見なせるはずです。



逆に、帰属修正の余地というものの総体を問題状態の抽象像とし、そこから代替不可能な内外事情にしか応じない実存を具体化条件に、
関わる具体的問題を切り取り、その時点での帰属修正余地のない状態(表層形として望ましいものかどうか、標準的なものかどうかは関係ない)へと持っていく

(帰属修正の上限は、有と無に差異がある以上は存在に先立つ為に与件と言える有限性、
通用してる領域が常に上限である事態と解せば無限性とも見なせるより確からしいものが取って代わる運動性、
これらのみに帰属がある状態であり、この意味で無限性の受容阻害を最小にした有限性であるところの上の実存はそう見なせる為、


上の実存を志向してないなら、内実の確からしくないものでも表層形で満足するなどの、表層形だけで評価する地平の外に出てるとは言えないし、
自身が何かをできない事態に対して、それが引き受けざるを得ないものなのか、そうでない部分を含んでるものなのかの差異について扱えないし、

通用してる領域の広狭と確からしさとの相関という肯定も否定も保留も依拠してるが故に第一原理と言える判断原理にのみ頼ってる状態、
この相関を表層次元にしか適用しなかったデカルトの限定通用性を、過剰特殊への批判にかこつけた不当合理の押し通しでなく、乗り越えてると言える為の条件でもあるこれを満たしてるとも言えない)、


これ以上の意味付けを知性倫理美意識に対して、あるいは、問題解決に対して与え、
(内実の確からしさを問う働きを奪う表層形断罪次元にそれらを留める事によって)対帰属修正に際する阻害を許してしまってる時点で、

局面と着目無視の合致とは非整合的であって、序列関係全体(これが曖昧明晰スペクトラム上のどの点を採るか込み)も含めた諸々の選抜処理に、
ドーピングや審判買収による金メダル的な茶番の側面が混入してると見なせます。



もちろん、主体の内在場の性質が代替不可能な内外事情にしか応じない主体像の反映であり、主体の外在場の性質がそのような主体の集積の結果である時の、
両性質を損なわないようにそれぞれの場の秩序が立ち上がってるなら解決状態と見なし、
場の管理者ポジションに対しては管理者立場からこの解決に責任を負う役回りと位置付ける秩序観を体現する事もできません。

(標準的という表層形と標準的でないという表層形の差異が扱い差異に、場の疑似でない性質とは無関係に反映される事態から、
場の疑似でない性質次第ではその差異が扱い差異に反映される事もあるに過ぎない状態、
何ものも不当な扱いを受けないという事態を場の本質の下の平等として解した場合の対表層形であるこれへと、

持っていくのにこの秩序観は必要なので、この秩序観の原型と言える、局面と着目無視の合致を押さえてないのなら、
自他の差異への言及であれ、反応の大小への言及であれ、実質を持たないと考えます。)


例えば、言葉の意味合いが時代を経て真逆になったとして、ここで問題になるのは、
使われ具合のフィードバックという具体化抽象化の交互反復における抽象化具体化が、

十分であれば変化程度によらず修正余地はなく、不十分であれば変化程度によらず修正余地がある為、そのどちらであるのかという点であって、
意味内容の絶対性の否定がいらぬ飛躍の正当化に繋がるのを防ぐのに必要です。

一方で、社会が上の主体像だけからなってはいない以上、修正余地のあるものを受容させられてる形ですが、
上の体現不能は、この種の強要に対し、泣き寝入りするしかないのと同じです。

(場の性質を好きに疑似化した上で根拠にしたポジションや具体的有り様の規定を、
自身の内面世界に関しては肯定しながら自国社会や国際社会に関しては否定する振る舞いは、
現実的事情を軽視する実存というカント的ご都合主義のパターンであって、取り合うに値しないと考えます。)

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欧米文系からの解放哲学。代替不可能な内外事情にしか応じない実存を解決状態として扱う主義。
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