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3093文字、多数派少数派という観点を疑似対立に利用させない為のポイントについて、文系の学歴の形骸性にも触れつつ
2023-10-001
局面と着目無視設定との合致状態での反応を基準とした時の、過小(過剰な見て見ぬ振り)と過大(過剰な大騒ぎ)の同時否定、および、局面の性質把握の上限化、
これら(具体化精度確保であり、フェアを越えて解決しない態度、例えば、自分すらフェアを越えては助けない結果な未解決状態の許容は、
自身への過大要求の取り下げなので、解放と見なせる)を内容とする自由平等は、
外在事情に合わせているいないの表層形を内容としてる通念的な自由平等に対する、応じる外在事情が代替不可能なものかどうかへの論点修正に相当してると考えます。
その場合、仮に後者内容を勘違いとすると、その原因は(例えば、獣に気付かれるか何かで物音を立ててはいけない局面ではない、
これによって可能になってる事も外在性質との統合体と見なせるのに)外在性質とは無関係に現象が成り立つとしてる現象観にあるとの推測も可能になるはずです。
そして、この構造は自由平等のような特定倫理に限らず、知性倫理美意識の働きに言えて、
真善美から見た外在性質としての、有限者の実存有り様(内外事情に応じてきた結果)に関する具体化精度問題として、
話を捉え直す必要がある(その働きについての自負も、真善美を割り引いてしまう有限性の下での、真善美との距離縮小の余地潰しを先立たせてないと、
帰属修正に帰属操作の側面が含まれてるとの意味での形骸化事態に対する修正を、かえって損なわせる)のだと考えます。
(ちなみに、理系的知性は、同種の他との差異要素捨象が要請されてる局面での働きであって、
要請されてない局面でも持ち出すのは具体化精度確保に失敗してると言えるのに、
既存の教育はむしろ、この知性への局面無視で持ち出すレベルの特化を強いていて、
局面に合わせる類の帰属修正能力を、したがって、局面次第であるものへの対応が決めつけ的になる地平矮小化の修正を、損なってると言えます。
さらには、通用領域の広狭と確からしさとの相関をどの観点の下で持ち出すかという具体化精度にいらぬ限界を与える事で、
否定反応も論点ずらしも前提にしてるため我々にとっては逃れられない第一原理と言えるこの相関との関係改善を、
例えば、否定反応や論点ずらしなど、カバーできてない外側の確保に自由を覚える勘違いから、
観点設定への評価にこの相関を阻害なく用いる具体化精度向上へ、という先の論点修正と同様の移行を、
損なってる、当然、採用観点の下での確からしさ判定がドーピングによる金メダル的な茶番であるのに、判定結果の受容を強いてくる主体の、
認識に関して唯一頼れるものとの関係改善が上限化されてない認識結果バージョンについて、減らすどころか権威を付しさえしてきたと言えます。)
獲得喪失や成功失敗といった表層形に、実存現象の帰属修正(内外事情を同種の他との共通要素捨象に十分さらし、修正余地のない事情の反映へと現象を持ってく処理)が先立っていれば、
修正余地のある事情の反映された表層形を、その表層形のみで肯定否定する事はないわけですから、
表層洗練のみが問題になってる局面でもないのに、表層洗練は圧倒的だけれど内実確からしさについては欠いてる、
との意味で偉大な張りぼてが、内実の確からしいものよりも評価されてしまう、といった事態、
言い換えると、修正余地のない(負わせる負わされるに値する)ものでなく、修正余地のあるものが、
負わせる負わされるものとしての地位に据えられてしまう事態(奪う奪われる世界込み)への対策として、
その捉え直しが必要である(奪われるという表層形から与えるという表層形に差し替えたとしても、帰属操作の発生への対策にはならない)と解しましょう。
例えば、民主政や市場は、場における割り振り原理の内容を、場を構成してる個々主体の事情の直接反映でもって形作るわけで、
場の性質の実態反映というスタイルから理論上、多数派少数派の関係がそのまま割り振りに持ち込まれてると言えますが、
ここでの劣勢という表層形に対し、劣勢優勢によらず内実の確からしさを求める(内実確からしさが保存された結果の表層形を求める)という方向に進むなら、
個々主体の事情に修正余地のなさを持たせる話(肥大化した現実尊重である実態主義の肥大化部分を否定する話、
例えば、代替不可能な内外事情にしか応じない主体像だけから成る場で、競争支持と協調支持の割合が分かってるのなら、
外在場の疑似でない固有性にしか応じない対外在の集積である以上、場の性質と競争協調スペクトラム上のポイント選抜との間のズレという表層形形骸化も最小であって、その割合に修正余地はない)となる一方で、
少数派(中身の入れ替わり込み)の劣勢を、内実の確からしさとは関係なく(つまり、対象を表層形のみで断罪する攻撃性の下での話として)緩和したい場合は、
疑似化してるしてないによらず外在場の実態を肯定するか否定するかという、実態主義と現実軽視の疑似対立、
および、外在場の個別性軽視は同じでも、個人の内面世界の実態を、疑似化してるしてないよらず根拠にする類
(言わば、売り手買い手のふっかけ合い的に均衡を形作る世界)と、軽視する類の疑似対立(リバタリアンとリベラルの関係)に陥ってしまうと考えます。
例えば、民主政における代表は、実態主義の分だけ確からしさ(抽象化具体化の不十分さ解消状態という修正余地なさ)を欠いてしまうと言えるのに対して、
文系教育におけるエリート選抜は、個別性が根拠になる局面での、個別性を同種の他との共通要素捨象に十分さらす処理(修正余地のなさがその時点での上限と言える個別性の獲得)の、
機能具合、および、機能してなさの把握精度(対象に見られる対内在や対外在での機能してなさは、
抽象化具体化の交互反復として対象を歴史的に見る拡張形も含め、対象理解に際する対象有り様の修正余地に相当する為、対象への要求に関する過不足の縮減具合でもある)が、
評価対象になってない、という意味での張りぼて選抜(この事情により、文系の学歴は文系の基礎の有無を保証してない)であり、
この原因は、理系的知性への過大評価(捨象対象選定を局面に帰属させる態度の不在)による同種の他との差異要素捨象の領域侵犯なので、
言わば、主観と客観の間で生じてる疑似対立(実態主義と現実軽視の関係)における実態主義否定の結果の張りぼて化と見なせるはずです。
(評価対象を修正するルートを開くべく、過剰特殊への批判にかこつけて不当合理を通しにいく内容やその逆の内容に、知的権威を付しただけのものがまかり通るなど、
個別性が根拠になる局面で疑似でない個別性以外を、したがって、文系の基礎が欠けた体系を、負わされ続けてる状況について、
世界規模で終わらせるという主題を、応じてる内外事情に修正余地がないとの意味で帰属修正が上限の実存をもって、
例えば、余裕があるならあるなりに、ないならないなりにといった冒頭の合致をもって、具体化しましょう。)
多数派少数派という観点(場の性質が疑似化してるしてないは当然、場の性質に即させる整合としての力、形式や価値を定める働き含むそれの偽装具合も意味してるわけだけれど、
疑似対立に関する前者の例では多数派が、後者の例では少数派が、場の性質との結びつきの強い立場)一つとっても、
他方への批判にかこつけた修正余地あるものの押し通し合い(修正余地の有るものを無いものかのように負わせてくる両者の間の上下論)、
という内容から観点を解放するには、実存現象の帰属修正を先立たせる必要があるのだと解しましょう。
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